六百五十話 極楽往生

八月九日の夕刻。
「口寂しいからなんかお菓子持って来てよ」
「いやいや三日後に帰ってくるんだから、ちょっと我慢しろよ」
「まぁ、じゃぁ、そうするわ」
「帰って来たら、焼肉でも食べにいく?」
「いいねぇ、焼肉、ありがと」
施設でリハビリテーション中の母から 掛かってきた電話でのやりとりだった。
二時間後、別の相手からまた電話が掛かってきた。
「急に倒れられて、意識をなくされているので今から救急搬送いたします」
「えっ?誰が?そもそもあなた誰?」
「お母さまです!施設の看護師です!」
「まぁ、とにかく搬送先の病院に向かいます」
台所で、夕食を支度していた嫁が。
「どうしたの?」
「婆さんが倒れたって施設が騒いでんだけど」
「なんかの間違いじゃないの?さっきの電話お母さんからだったんじゃないの?」
「うん、口寂しいとか、焼肉食いたいとか言ってたけどな」
向かった先は、国立循環器病センター。
救急救命の病床で、いびきをかいて寝ている母と対面する。
「先生、母の容体は、どうなんでしょうか?」
「多分、急性心筋梗塞だと思いますが、容体は、たいへん厳しいです」
「いや、母に心臓疾患なんてありませんよ、ってか、歯医者にすらかかっていないですから」
「雑なもの言いになりますが、どんな方でも九六歳の心臓は、九十六歳なりの心臓なんです」
端的に的を得た診断だと納得した。
「どうされますか?此処でなら積極的に手術という手も尽くせますよ」
「専門医の先生を前に失礼ですが、もう、いいです、それより、今、本人苦しいんですかね?」
「倒れられた瞬間ウッという感覚はあったかもですが、以後はなんの感覚もないと思います」
「じゃぁ、このまま・・・・・・」
「えぇ、逝かれるんじゃないかと」
翌朝五時、医師の推察通りそのまま亡くなった。
生前、母親はよく言っていた。
「わたし、蝋燭の灯がフッと消えるみたいに逝くんやから、勝手にいらんことせんといてな」
マジで、その通りに逝きやがった。
改めて想う。
これまでの人生で、母ほど生きたいように生きた人と他に出逢ったことがない。
運と人に恵まれ続けた九六年間。

ほんと羨ましいかぎりだわぁ。  合掌

 

 

 

 

 

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