四百八十九話 やっぱり頼みは、稲荷大明神!

嫁に付合って京都山科で午前中の用事を済ませた後だった。
「近くだから、御稲荷さんの顔でも拝んでいく?」
「わたしお参りしたことないんだけど、伏見稲荷って商売の神様じゃないの?」
「商売やめて、伏見稲荷ってどうなの?」
「まぁ、それもそうだけど、参ったことがないっていうのもまずいんじゃないの?」
「無事に商ってこられた御礼がてら行こうよ」
伏見稲荷大社には、関西を始め全国の商人にとっての守護神が祀られている。
この国には、お稲荷さんと呼ばれる神社は三万社を超えて在る。
その全てのお稲荷さんを束ねる総本宮が、此処伏見稲荷大社だ。
一三〇〇年経った今もなお、商売繁盛・五穀豊穣を祈願するひとは後を立たない。
本殿に参って、千本鳥居へ、嫁が妙なことを言い出した。
「この千本鳥居 って、ほんとに千本あんの?」
「そりゃぁ、千本以上はあるんじゃないの、これが稲荷山の山頂までずっと続くんだから」
「ええっ!マジですかぁ!で、稲荷山って何処にあんの?」
「此処だよ!この鳥居を際限なくくぐって山頂へと登っていく訳よ」
「凄いねぇ、じゃぁ、行こうよ」
「う〜ん、ちょっとした登山だから無理じゃないかなぁ」
「って、ひとの言うこと聞けよ!」
説明も忠告もなにも聞かずもう登り始めている。
稲荷山は、伏見稲荷大社の神体山で、二三三メートルほどの標高である。
たいした標高ではないが、それでも山は山だ。
二度ほど連れられて登った記憶だと、九〇分ほど石段を登り続けたような。
意外ときつい。
一〇分おきくらいに茶店が在って、茶店毎に登るのを諦めたひとが引き返していく。
四〇分ほど登りつめると、四ッ辻に着く。
視界が一気に開け、洛中が一望できる中腹地点だ。
たいていの参拝者は、この眺望を土産に引き返すみたいで。
「さ〜て、俺らも戻るかぁ」
「だから、ひとの言うこと聞けって!」
嫁には、この眺望も単なる通過地点に過ぎなかったようで、さらに登っていく。
「あんた、なんか狐かなんかに憑かれてるんじゃないの?」
一 時間を過ぎると、膝というより股間が痛い。
麓でごった返していた参拝者も、今はもう数えるほどしかいない。
しかも、白人四人、中国人一人、どっかの浅黒いのが二人といった具合で。
日本人は、我々だけ。
どうやら外国人は、参拝者ではなくアニメ・オタクみたいだ。
伏見稲荷を舞台にした作品の聖地になっていて、その筋では海外でも広く知られているらしい。
ようやく、一 ノ峰の祠に手を合わしたのは、九〇分ひたすら登り続けた後。
これまで一言の文句も口にせず登ってきた嫁は、なにやら熱心に拝んでいる。
このひと、こんなに信心深かったけ?
稲荷大社を後にした帰り途、嫁の携帯電話が鳴る。
「うわぁ、ごめんね、なんかに当たって掛かったみたい、間違いだから」
「えっ!ちょっと待って、そんな話だったら主人に代わるから、側にいるんで」
偶然間違って掛かった相手は、もう一年以上ご無沙汰の知人だった。
用件は、売却しようとしていた不動産に興味があるという友人がいるとのことで。
来週にも、その件で飯を喰おうということになった。
さらに、翌朝には、大阪国税局から。
記載間違いによる返還金が確認できたので、至急出頭してもらいたい。
さらに、さらに、昼過ぎには、会計士から。
最終決算の勘定を終えてみると、予定納税額との差額で戻り金がだいぶと発生している。
どれも想定外の件で。
それらすべての連絡が、僕にじゃなくて嫁の携帯電話に。
さすがに、嫁と顔を見合わせた。
「お稲荷さんのご利益って、半端ねぇな」
「マジ、凄いねぇ」
「この際、鳥居寄進しちゃう?」
「それは、結構つくんじゃないの?」
「ちっちゃいのだったら一五万円からで、そこから四段階で高くなるみたいよ」
「あんた、もうやる気満々じゃねぇの!」
「だって、あれだけ鳥居が建ってるってことは、それだけ願いが叶ったっていう証じゃん」
「おんなじひとで、 四本も建ててるひともいたもん」
「ずるいよねぇ」

兎にも角にも、やっぱり頼みは、稲荷大明神!

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四百八十八話 まさかの同居人! 其の参

ひつこいようで申し訳ありませんが、四百八十七話からの続きです。
捕獲撃退作戦の要領は、こうだ。
まず、天井にいくつか点検口を設ける。
そして、屋内の子供連を燻煙剤で追い込み捕獲する。
次に、授乳のために通って来る親が屋内に進入できないように全ての床下通気口を塞ぐ。
さらに、念のため点検口に忌避剤を置く。
これら作業を、親の居ない昼間に完了しなければならない。
嫁に大工を加えた五名による人間対正体不明の獣との最後の闘いだ。
午後〇時ちょうど作戦開始!
客用寝室と玄関の天井に点検口設置用の穴を開け始める。
音に怯えてか、寝室の天井裏から鳴き声はするのだが、移動の気配はない。
開けた穴から、懐中電灯で照らし内部の様子を探ってみた。
梁の下の空間から鳴き声は聞こえるが、梁が邪魔して姿は確認できない。
やはり燻煙剤を投入して、追い出すしかなさそうだ。
先に点検口を付けて燻煙剤を仕込み扉を閉じる。
煙が充満し始めたと同時に、ギャーギャーという鳴き声がして、バタバタと動き回る音が響く。
音は、西の玄関方向へ。
よ〜し、作戦通りの行動で、玄関に設けた点検口で待ち受ける。
あれ?来ない?鳴き声もやんだけど?どこ行った?
しばらくすると、 途中にある応接間と玄関とを仕切る壁内部から気弱な鳴き声が。
壁の間に落ちやがった!
「どうします?」と訊く棟梁に。
「いいから!壁ぶち抜いて!」
「えっ?マジですか?本気ですか?」
「冗談こいてる場合かよ!捕まえるためにはなんだってやるんだよ!」
「了解!だけど電気ドリルは使わず手作業で抜こう!怪我するといけないから」
「あのなぁ、オメェいったいなんの心配してんだよ?どっちの味方なんだぁ?」
壁に五〇センチ四方の穴を開けた。
全員手に棒を持ち周りを固めて、火箸を手にした棟梁の動きを見守る。
「デカッ!なんだぁ!コイツ?あっ!二匹いるぞ!なんか箱を!早く!」
そうして遂に、火箸に挟まれて穴から出てきた敵の姿を全員が見た。
騒動の主は、イタチでも、ハクビシンでもなく、アライグマだった。
「嘘ぉ〜、どんだけ可愛いねん」
皆棒を捨て、代わりに手にしていたのはスマホ。
で、撮った写真がこれです。
聞くところによれば、アライグマは、一度の出産で三匹から六匹の子を産むらしい。
見つかったのは二匹、他に?どこかに?まだ?
客用寝室の片付けをしていた大工のひとりが、なんか鳴き声がすると言う。
先程の梁下で、垂れ壁の内部だ。
「どうします?」
「だから、躊躇なくやるのみだろ!抜くんだよ!壁を!」
「了解!よーし、助けるぞぉ!待ってろよぉ!」
「いやいや、それはおかしいんじゃないの?」
もはや、作戦の趣旨がまったく違った方向に向かっている。
捕獲でも撃退でもなく、救助して保護的な感じの色合いになってしまっている。
ひとも獣も見た目は大事だ。
痛がったら可哀想だからと、火箸に布なんか巻きながら棟梁が言う。
「なにも、こんなに怖い目に遭わさなくってもいいのに」
「ええっ?なんか俺、悪者になってない?此処、俺の家だよね?」
「じゃぁ、一緒に棲めって言うこと?無理だから!家賃だって払いそうにねぇし!」
箱の中で、立ち上がって、縋るようにこっちを見ている。
「やめろよ、そんな眼で見るなよ、どうにもなんねぇよ!」
信じられないはなしで、想像もつき難いのだが。
この可愛い奴らが一ヵ月も経つ頃には、恐ろしく凶暴で狡猾な成獣に育つのだそうだ。
その気性の荒さは、動物園ですら手を焼くらしい。

さて、どうしたもんだろう?

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四百八十七話 まさかの同居人! 其の弐

四百八十六話からの続きです。
得体の知れない同居人との闘いは、その後二〇日間に及んだ。
その間ずっと海辺の家に居たわけではないが、離れていても気になってしょうがない。
なので、頻繁に通う。
どうやって追い出すか?
そもそもどんな性分の輩なのか?
鳴声だけが頼みなのだが。
それぞれを聞き分けて、何匹いるのかがわかるほどに耳慣れてもいない。
ただ、家にはこどもだけが居て、親は通いで育てているらしい。
こうして正体も何も分からぬままに、捕獲及び撃退作戦開始!
まず庭師を呼んで、親が出ていった隙に床下の通気口をステンレス製の網で塞ぐ。
授乳の時間帯は深夜から明方のようなので、作業は夕方に終えて様子を窺う。
草木も眠る丑満時。
ガサゴソ、バタバタと、明らかにこどもの動きとは異なる音が響く。
親だ!
どうやって侵入したのか?
翌朝、塞いだ通気口を見にいく。
ステンレス製の網は、見事に引き破られている。
ふ〜ん、なかなかやるもんだ。
今度は、大きな座金に変え壁に網をネジ留めした。
さらに、網の前面にレンガとブロックを積む。
結果は?
レンガやブロックを蹴散らし、網も破られ、こどもは腹一杯乳を飲んでご機嫌で騒いでいる。
くそ〜、なめやがって!
こうなったら、こっちもガチだ!
二〇キロ近い重さの礎石四枚を、網の前面に敷く。
勝敗は?
完敗!!!
さすがに蹴散らされてはいないが、引きずるように礎石はどかされ、網は破られ侵入。
二〇キロ近い礎石を動かせる腕力を備え、床下を這い、内壁を登り、天井裏をゆく。
こいつ、ほんとにイタチなのか?
もう、ここまでいいように振舞われると。
ホモ・サピエンスとしての誇りは打ち砕かれ、マジで怖い。
これは、庭師だけでは手に負えない。
大工も投入して、家を潰す覚悟で戦いに臨んでやる!
棟梁を含む大工三名が参戦。
イタチですかぁ、大変でしょ、寝れないですよねぇ、まぁ、追出すしかないですよね。
とか、余裕ぶっこいていた大工に、携帯で撮った侵入路の写真を見せた。
えっ?これ何者?こんなもの動かせるイタチなんかおらんでしょ?怖ぁ〜!
おいおい、腰引けてんじゃねぇよ!おたくらが、最後の砦なんだよ。
遂に、これが最終決戦だ。

続きは、四百八十八話で。そして、その正体を撮った姿をお見せします。

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四百八十六話 まさかの同居人! 其の壱

ようやく法人解散の手続きにも終わりが見えてきて。
海辺の家で一息入れることにした。
庭仕事を終えて床で寝んでいると。
ガサガサと音がする。
場所は、一階と二階の間にある隙間からで、明らかに何者かがそこにいる。
真夜中に得体の知れない者の音だけを聞くのは、かなり不気味で怖い。
嫁とふたりで階下に降り、一階の天井を棒でちょっと突いてみた。
ガサッという擦れるよな音に加えて、ピィーという微かな鳴声が聞こえる。
「ふざけないでよ!なに?だれ?」
「何時だと思ってんの!やめてよ!」
で、力一杯ドンドン突いた。
これが、いけなかった。
バタバタ、ギャァギャァ、近所にも響きわたる騒音に変わる。
こうなると、相手もパニックだが、こちらも相応にパニックに陥る。
ドンドン、バタバタ、ギャーギャー、明け方までずっと続く。
海辺の家で一息どころか、ここ最近の運動量としては限界に近い。
「もうやめよう」
「イタチだな、これだけやれば身に危険を感じて出ていくんじゃないの」
「とにかく、庭師を呼んで追い出して、進入路を塞げばいいじゃん」
こうした人間の浅知恵が通じるような相手ではなかった。
写真は、イタチなのだが。
固定資産税の一文も払わず、海辺の家で子を産み、不法に居座っている輩はこいつではなかった。
もっとヤバくて、厄介な無法者との長い闘いの幕はこんな感じで開いた。

続きは、四百八十七話 其の弐で。

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四百八十五話 奮闘中!

桜の花が散って。
こうして、藤が垂れてもまだ終わらない。
ほんとうに面倒臭い。
法人解散というなんの生産性も伴わない作業に没頭している。
賢い先輩から。
「そんなもの休眠させて、放っとけばいいじゃん」
まぁ、それはそうなんだろうけれど。
この法人は俺が創ったものでも始めたものでもない。
先代の親父から継いだものだから、中途半端に投げ出すのも寝覚めが悪い。
事業会社の解散も、ひとの葬儀も似たようなものだと想う。
ちゃんと始末をつけなければ。
だけど、もうちょっと楽にやれるようにならないものか?

この国には九〇〇〇〇社ちかく営業実態のない会社があるというのも頷ける。

 

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四百八十四話 桜は咲いたけれど

海辺の家に桜が咲いた。
咲いたけれど、見上げて愛でる余裕もへったくそもない。
こんな blog を書いてる場合でもない。
Musée du Dragon の閉店に続き、一年後のこの二月で百貨店に在った店舗も閉じた。
これで事業会社として全ての営業活動を終えたことになる。
円満に事が運んで良かったのだが、問題はその後である。
役目終えた組織を解散させなければならない。
大変だと聞いていた以上に大変だ。
会計士や司法書士の先生方に。
ここまでは、経営者としてちゃんとやりなさい、後は僕らが責任を持って処理するから。
落ち着いて、ひとつひとつ手順通り進めていけば出来るのだそうだ。
って、クソ面倒臭ぇ〜。
大体なんで俺が、この歳になって。
駈出しの公務員のおにぃちゃんやおねぇちゃんに。
「はい、ここにこの事項を記載してくださいね」
「あっ、そこ間違えてますよ」
「さっきも言いましたよねぇ」
「判子は持ってきましたか?」
うるせぇよ!小学生じゃねぇぞ!やりたいようにやらせろ!
「駄目ですよそういうのは、お絵描きじゃないんですから」
人には、向き不向きがあるのだ。
自分の年金額も知らないおとこに、社会保険がどうのこうのって言われても。
無理だ!
こんな事なら、自分でやるなんて言わなきゃ良かった。

もう、やめるのをやめたい。

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四百八十三話 由比ヶ浜伝説

街場の店主から語られる物語の舞台は、大抵がその店屋だ。
舞台がなくなってしまっては、物語の値打ちも失われてしまう。
旅先で供される旨い地物に箸をつけながら。
ほら、まさに腰をかけておられるその席から.......。
などという至極のひと時を偶然にも過ごせたなら、得難い幸運に恵まれたといって良いと思う。
ここ由比ヶ浜に通うようになったのも、そうした幸運が重なったからかもしれない。
湘南の小さな街の小さな名店には、昭和の伝説がひっそりと継がれている。
無頼派作家と銀幕女優との仲を結んだ小花寿司の店主、三倉健次さん。
昭和とともに消えた「なぎさホテル」を語る獨逸料理屋 Sea Castle の女主人、Karla 婆さん。
相応に癖は強いが、僕にとっては、かけがえのない店屋であり人でもある。
しっとりと落ち着いたこの浜も、桜が咲き始めると賑やかになり、夏にはひとで溢れる。
できればそうなる前に訪れたい。
いつものように Manna で晩飯を食う。
この Manna の女料理人 原優子さんは、以前 Nadia という飯屋を長谷で営まれていた。
Nadia 時代から、伝説の女料理人が湘南にいると噂されるほどの腕前で、文句なく絶品の味だ。
まぁ、こちらの方の伝説は、語るより調理場での彼女の仕事振りを眺めたほうが分かりが良い。
忽然と姿を消すひとらしいが、今なら間に合う。
この歳になっても早食いは治らず、宿に帰るにはだいぶと間がある。
そういや、閉じられていた湘南屈指の名門 BAR が、再開したと聞いた。
駅としてはひとつ鎌倉寄りの和田塚だが、由比ヶ浜のと言っても間違いではないほどに近い。

THE BANK

ひと通りも絶えた薄暗い路を駅から浜へと向かうと三叉路に行き当たる。
中洲に乗りあげた朽ちかけの座礁船のような風情で、もうすでに建物自体が異形の様相である。
家屋ほどのちっちゃなビルで、灯が妙に怪しい。
これが、あの聞こえた THE BANK かぁ?
一見の身で BAR の扉を開けるには若干の躊躇が伴うものだが、ここは北新地や祇園や銀座ではない。
そもそもこちらの風体も怪しいが、この BAR も充分に怪しいんだから、どっちもどっちだろう。
真鍮製の取手に手をかけ年代物の扉を引く。
ほどよく暗い店内は、いらぬ手を加えず簡素で古く褪せた感じのままにある。
どこかピシッとした空気感も漂うが、名門 BAR にありがちな拒むような雰囲気でもない。
くだけていて、ちゃんとしている。
不可思議な BAR だが、とても居心地が良い。
肝心の酒も丁重に供される。
ピックで削られた Lump of Ice も見事だし、肴の Fig Butter も旨い。
だけど、THE BANK の真髄は、この場としての佇まいにこそあるのだと想う。
ひとりのおとこの美学が濃密に凝縮された空間。
酒肴とはなにも口にするものだけではない、この BAR では 空間そのものが上等な酒肴として在る。

渡邊かをる

VAN Jacket の宣伝部意匠室長として、日本のメンズ・ファッション創成期を牽引した後。
アート・ディレクターとして数々の作品を手掛けられた業界の大物である。
その造詣と見識は、服飾だけでなく陶磁器・美術全般にまで及ぶ。
僕は、世代が少し下だったので、遂にお目に懸かることは叶わなかったけれど。
たいそう格好良い方だったと聞く。
その酒と葉巻を愛したおとこが、 理想の BAR として構えたのが THE BANK である。
設計は、日本を代表する空間演出家の片山正道が担った。
片山の事務所 WANDERWALL の初仕事だったのだそうだ。
場所は、旧鎌倉銀行 由比ヶ浜出張所として昭和二年に建てられたこのビルが選ばれた。
こうして、二〇〇〇年四月。
作家、画家、写真家など多くの文化人や、地元の商店主達が夜毎集う奇妙な酒場の幕が上がる。
そして昨年、渡邊かをるの逝去とともに THE BANK は伝説上の BAR となった。
外観はそのままだったが、家具や備品は全て撤去され、もぬけの殻。
そんな THE BANK に再び灯が燈るという。
それも家具や備品もそのままに。
ちゃんとした志をもったひとが現れた時には、お戻ししたい。
そういう想いで、ビルの所有者が 大切に保管していたらしい。
志を持ったひととは、片山正道で、WANDERWALL が THE BANK のこれからの運営を継ぐ。
実際の切盛りは、湘南をよく知るふたりの男女で。
酒は、鎌倉の BAR で修行した野澤昌平さんが、料理は、葉山出身の荒井惠美さんが担っている。
帰りがけ荒井さんに。
「良いお店ですね」
「 ありがとうございます」
「お近くにお住まいなんですか?」
「うん、近いといえば近いけど大阪だね」
「ええっ!うそぉ〜!なんでぇ?」
「わかんない けど、近々またお邪魔するのだけは確かだね」
渡邊かをるさんが、よく口にされていた言葉があると聞いた。
俺は、やかましいモノが好きなんだよなぁ。
やかましいモノとは、多分骨董屋の世界で使われる業界用語だろう。
とにかく希少で、手放すと二度と手に入らないモノ。
さらに、語りどころの多いモノを意味する。
まさに、この THE BANK がそうだ。

そして、浜の新たな伝説がまた始まる。

 

 

 

 

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四百八十二話 T-Shirts に良いも悪いもあるのか?

それは、あります。
つうか、TーShirts にこそあります。
着心地は心地良いか?
体型に合うのか?
色はどうか?
など、あれやこれやの我儘を言いだすとキリがない。
挙句に、洗濯し倒しても当初の良さを保てるか?まで求めるといよいよ見つからない。
さらに、それが半袖じゃなくて、長袖の無地だとなるとお手上げだ。
が、そこは餅は餅屋なので。
あちこち探して、納得のいく一枚をようやくのこと見つけた。
The Elder Statesman
Statesman という無駄に上昇志向の名が癪に障ったけどこの際それは我慢する。
Creg Chait というカナダ生まれの米国人がデザイナーらしい。
そもそもカシミヤ専門のニット・メーカーなのだが、数点綿 T-Shirts も創っている。
原料は全て自身の目で確認して買付け、Los Angeles の工房では糸を撚ることから始めるのだそうだ。
見た目は、ちょっと色が褪せたただの無地 T-Shirts に過ぎない。
別段これといった高級感もない。
首裏のブランドを示すネームすら付けられていない。
あまりにもふざけているので、逆に気になって手にとってみる。
なんだぁ?この T-Shirts ?
綿製品とは思えない柔らかな風合い、適度な膨らみと滑りの良さが手触りから伝わってくる。
Sun Bleached と記されてあるが、天日干しだけでこうはならないだろう。
試しに着てみた。
肩幅は広く、身幅は緩く、袖は細くて長く手首あたりで溜まるように設定されてあって。
体型にもよるだろうけれど、よく練られた絶妙の型に仕上げられている。
これは、もう買うしかない。
それも、三色とも色違いで大人買いしてやろうかと考えたが、値札を見て大人になるのをやめた。
まぁ、そりゃぁそうなんだろうけれど、俺 Malibu の別荘地の住人じゃねぇし。
大人しくピンクだけ買って帰ろう。
それにしも、この風合いは見事だ。
勘定を済ませながら、店屋のおにいちゃんにそのことについて訊いてみた。
「それは、お客様、The Elder Statesman ですから」
「なるほど、それはそうだよね」

訊いた俺が馬鹿なの?

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四百八十一話 中野靖は、どこへ行く?

みなさん、ANSNAM の中野靖とかいうおとこの名を覚えておられるでしょうか?
別にお忘れになられていても、一向に構わないのですが。
僕にとっては、最も忘れたくて、最も忘れられない因縁のおとこでもある。
そんなおとこから、久しぶりに電話があって。
「蔭山さん、明日大阪で会えますかぁ?」
「別に良いけど、何時に?何処で?」
「朝九時頃に、梅田なんですけど」
「はぁ?朝っぱらから、おめぇと顔突き合わせたかねぇよ!」
「会うなら昼飯時だなぁ」
で、昼飯を喰いながら。
「ところで、僕、今何やってるかご存知ですか?」
「知らねぇよ、そんなもん」
「訊きたいですか?」
「別に、知りたくもないけど」
「実は、店を始めたんですよ」
「ふ〜ん、一膳飯屋にでも鞍替えしたの?」
「服屋ですよ!なんでデザイナーの俺が飯屋なんですか!それは嫁ですよ」
「えぇ!マジかぁ?夫婦それぞれに店屋始めたの?」
大丈夫なのかぁ?と問い質しそうになったけど。
やめた。
ここで関わっては元の木阿弥だ。
冷静に返さなければならない。
「まぁ、大丈夫じゃないの、その溢れる才能でなんとかなるよ、多分だけどね」
「服創りの才能に限ってだけど、余人を以って替え難い才だと思ってるよ」
「いや、それが仕入でやってるんですけどね」
「えっ?あんたの服じゃないの?」
何がどうなっていて、どんな店屋なのか?と問い質しそうになったけど。
やめた。
理解不能、予測不能、制御不能のおとこが営む店屋。
それはそれで面白いのかもしれない。
店名は?
ANSNAM ceder
場所は?
東京白金台。
そして、僕は?
絶対に行かない!
今後の人生で、このおとこと交わることだけは、避けなければならないから。
嫁曰く。

あんた、気付くのが遅いよ!

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四百八十話 春に着る服 

服屋を営んでいると。
好みの服を、好きな様に、好きな時に着るというわけにはなかなかいかない。
でも今は、商いの縛りも、しがらみも解けて自由だ。
そんな身の上で、この春に着る服をちょっと考えてみた。
欲しいアイテムは、ふたつ。
ひとつは、軽く羽織れる一重仕立ての Coat 。
もうひとつは、究極に着心地の良い T-Shirts 。
まぁ、こんなところだろう。
Pants は、このところ Jeans で過ごしているのでそれで良い。
経糸が濃茶色、緯糸が黒色、平織りの麻布一枚で仕立てられた Coat 。
肩線は落とされ、ゆったりとした皺くちゃの Work-Coat 的な風情だが。
その袖は、完璧な仕立ての流儀で付けられている。
精緻に仕立てられた粗野な服。
今、気分としてはそうなんだけれど、適う服を探すとなると難しい。
で、結局この春も、 The Crooked Tailor の中村冴希君が届けてくれた服に袖を通すことになる。
麻生地も中村君が考えたのだそうだ。
白色もあるらしいが、肥えた冬大根みたくなりそうなので茶色にした。
春には少し暗い気もするけれど、深みがあって、これはこれで良い色だと気に入っている。
海辺の家には、梅花が香る。
花香を嗅ぎながら、こうして春の衣替えを待つのも一興だと想う。

中村冴希君、良い服を届けてくれて有難うね。

 

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