五百話 一支國へ

長年身体の調子を診てもらっているおとこがいる。
ある日のこと。
その日も朝から具合が悪く施術を頼んだところ。
「蔭山さん、烏賊とサザエ食べますか?」
「あのなぁ、俺、調子悪いって言ったよねぇ、そもそもいつから料理屋に鞍替えしたんだよ!」
「いや、採れたてのを実家の親父が送ってきたもんだから」
親父さんの手前もあって食ってみた。
旨い!
瀬戸内のそれとも、日本海のそれとも、まるで違う味と歯応えに驚く。
箱にあったすべてを平らげてやった。
「あぁ、なんてことを、まだスタッフで一口も食べてないのもいるのに!」
このおとこの実家というのが壱岐で、烏賊とサザエはそこからやってきた。
こんな魚介がふつうに食える島って?
聞けば、それだけではく、牛、鳥、米、酒から、塩や醤油に至るまですべての食材が一級品らしい。
「俺、壱岐にいってくるわ」
「えぇっ!遠いですよ、もしほんとにいかれるんなら、叔父に飯屋の手配とか連絡しときますけど」
叔父さんは、大阪在住で壱岐の観光関連の役員をされている方らしい。
そんな心強いはなしもあって、とにかく壱岐へと向かうことにした。
お隣りの対馬とともに国境の島とされている壱岐。
島の歴史はとても長い。
この国の号が、日本と定められるはるか昔の古代より連なっている。
史書には、 倭国の島国である一支國との記述もあって。
日本古代史に於いては、珠玉の存在なのだという。
まぁ、あんまり興味ないけどそうなのだそうだ。

こっちは、食気に駆られてだけの旅だから。

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四百九十九話 博多千年煌夜

霜月の初日。
博多の鎮守古刹が粋な灯に包まれる。
煌夜に浮かぶ十二の寺社を、博多っ子は巡って夜長を過ごす。
そこに物見のよそ者も加わるのだから、賑わいはちょっとしたものだ。
この博多千年煌夜と名付けられた催事は、難しい神事や仏事に由来したものではない。
秋の夜長に飲んだり食ったりしながら灯りを巡れば楽しいんじゃないの?
ただそれだけの話である。
「よか?」「よかよか!」
博多弁は短く、博多人は素早い。
そうと決まれば、寺社は場を、町衆は労を、商人は銭をといった具合にあっという間に事は進む。
そして、その仕上りは半端ない。
なので、ちょっと覗いてみることにする。
実は、この日が博多千年煌夜初日とは知らずに訪れたものだから。
飯屋の予約もあって、十二の寺社すべてを巡っている余裕はない。
で、博多っ子にお薦めを訪ねてみた。
「みんながよう見よるんは此処と此処やけん」
「 うちも去年見よったけん、ばり良かったったい」

萬松山 承天寺

南岳山 東長寺 

おねえちゃんのお薦めを堪能して。
中洲川端の名店 「 いろは 」 で博多名物水炊きを堪能して。
中洲をぶらつきながら、博多の守護へ。

博多総鎮守 櫛田神社 

夏、博多祇園山笠の曳山は、ここ櫛田神社から博多の街へと駆け出す。
まさに博多人の矜持を象徴 する聖地である。
すべてを町衆が取り仕切る街、博多。
これほど見事に自治を貫いてきた街は他所にはないと想う。

博多は、ばりよかとこです。

 

 

 

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四百九十八話 貝酒場

夏に淡路島で貝焼を喰って以来、空前の貝ブームがこの身に訪れた。
が、いくら海辺の家の眼前とはいえ、いちいち島に渡るというのも面倒臭い。
どこかに、貝喰いの欲求を満たしてくれる飯屋が近場にないものか?
暇を武器に探した末に見つけた。
元町駅から歩いて五分くらい、北長狭通り神戸サウナの裏辺り。
路地の隅々にまで呑み屋がひしめく界隈に在る旧い雑居ビルの二階で営まれている。
シェルハラ
疑う余地もない屋号の貝専門店。
行くと、階段から降りてくるおにいちゃんに声をかけられた。
「シェルハラ行かはりますのん?」
「あかん!あかん!今晩も満席ですわ」
どうやら断られて帰るとこらしく、それからも二度ほど電話で満席と告げられた。
諦めていた数ヶ月後、近くで用事を済ませた帰り途。
日曜の晩方遅くの呑み屋街は意外と暇なので、ひょっとしたらと思い訪ねてみた。
「カウンターでしたらご用意させてもらいますけど」
一〇坪ほどのちいさな構えで、カウンター五席と卓がひとつ。
カウンターに女性客二人、卓は仏人客四人で占められている。
なんで?こんな飯屋に仏人?
英語も駄目らしくて、携帯の翻訳アプリを駆使して注文しているみたい。
これも、港街神戸の酒場ならではの風情かもしれない。
さて、肝心の貝飯だが。
各地から取寄せた旬の珍妙な貝を山盛りに蒸焼きにする。
あまりにも珍妙なので、訊いて覚えていてもどうせ手に入らないのだから無駄なので忘れた。
シェル・マニアという人種が、もし此の世に存在するのであれば。
間違いなく此処の店主は、 そうなんだろうと思う。
まさしく貝三昧なのだが、食感風味がそれぞれで食べ飽きない。
貝をオタクの域まで掘り下げると、こうなるといった具合で興味深い。
そして、〆のこれ!

蒸焼きのだし汁で炊かれた雑炊。
どう考えても不味くなりようのない逸品なのだが、その想像を超えて旨い。
この貝雑炊だけを目当てに通いたくなるほどに旨い。
どこの誰が喰っても旨いだろう。
居合わせた仏人客連中も揃って。

C ’est excellent !

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四百九十七話 泥棒の隠れ家

ちょっと描いてみた。
一九八〇 年代、香港の夏。
STANLEY の中国名は「赤柱」
泥棒の隠れ家という意味なのだそうだ。
あの頃、Market Road の路地裏には、まだこんな壁が残っていた。
Chinatown に咲く百合。
こんなだったか?どうだったか?今そう問われても、もうよくは憶えていない。
ただ、怪しくて淫靡な感じだけは、妙にあたまに残っている。

まぁ、それだけのことなんだけど。

 

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四百九十六話 終了!

終わったぁ〜。
終わりました。
二月にすべての営業を終えた後、半年経った。
その間、法人解散の手続きに衰えた能力を絞って取り組んできた。
そして本日、ようやく完了の運びとなりました。
結果、店主として、事業主として、清算人として、その役割を終えたことになる。
勝った負けたの話ではないけれど、無事に成ったことに正直安堵している次第です。
さぁ〜て。
祈願の達磨に目を入れて、眼前の山中にある勝尾寺に納めにいくかぁ。
達磨さんにも、関わっていただいた皆さんにも感謝です。
ありがとうございました。

まぁ、こんなとこかな。

 

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四百九十五話 暮らしに添って在る豆腐屋

歳をとると、しょうもないことで揉めることがある。
京都で、豆腐屋の店先を通りすがった際に友人が言う。
豆腐なんて喰い物が、なんの為にこの世に存在しているのか解らない。
色も、味も、食感もはっきりしない。
はっきりしないものを有難がって喰うやつの気が知れない。
明日にでもなくなったところで、どうということもない喰物のひとつである。
日本人の食文化を根こそぎにするかのような聞き捨てならない暴言だ。
中国で生まれ、東亜細亜を中心に広く食されている豆腐だが。
白くて柔らかい豆腐は、日本人による日本人のための食品としてある。
そして、豆腐は豆腐屋がつくる。
この豆腐屋、ひと昔前には町内ごとに一軒は営まれていた商いだった。
だから、豆腐はわざわざ遠くに足を運んで買い求めるものではない。
今でも、京の町屋から鉢を手に豆腐屋へと向かう姿を見かけたりもする。
その町に棲まうかぎり、いつもの豆腐屋のいつもの豆腐をずっと喰って暮らす。
日々のことであるから、暮らす者にとっては我町に在る豆腐屋の腕前は肝心である。
嘘か真か定かではないけれど。
豆腐好きで知られた泉鏡花は、豆腐屋の評判で居を移したこともあったらしい。
つくり手が、一丁一丁手売りするのがあたりまえで。
百貨店や量販店で売られている機械生産の豆腐は豆腐ではなく、味を似せた模造品の類だ。
一軒で日に三〇〇丁ほど売れば、家族の暮らしが立つという意外と採算性の良い豆腐屋稼業だが。
水に浸した大豆を臼でひき、煮て搾った豆乳に苦汁を入れて固めたものを包丁で四角に切る。
暑かろうと寒かろうと、夜に仕込み陽が昇る前からこの作業をこなさなければならない。
その繰り返しが生涯続くとなると、横着な者には到底務まらないだろう。
本来、豆腐屋とはそうした商いで、豆腐とはそうした喰物である。
先日、鳥取からの帰り途。
地元民の従姉妹が、 あんたの好きそうな店屋があるから送りがてら連れていってやるという。
辺り一面田圃に囲まれた集落で営む一軒の店屋。
豆腐屋だった。
「ここんちのお兄ちゃん、それはもうイケメンだから」
「えっ?そこなの? 俺、イケメンだろうがなんだろうが、お兄ちゃんに興味ねぇし!」
まぁ、たしかに、店主は若いし良い面なのだが、この豆腐屋それだけではない。
引戸を開けた右手すぐに構えられた工房。
道具のひとつひとつが、よく使い込まれ、よく手入れされてある。
夕暮れの薄陽に浮かぶその姿は、稼業への精進を映していて美しい。
もう食わなくてもわかる、此処の豆腐はちゃんとした旨い豆腐だ。
この集落で暮らすひとには。
旨い豆腐に日々ありつけるというささやかではあるけれど贅沢な幸運に恵まれている。
祖父から孫へと継がれた「 平尾豆富 」の味
見事です。
ごちそうさまでした。
この豆富、鳥取市河原町佐貫へ行けば味わえます。

そして、奥様方へは、イケメンお兄ちゃんの接客もご希望によりオプションで追加されます。

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四百九十四話 もうひとりの座頭市 

六本木歌舞伎の第二弾、座頭市。
寺島しのぶさんって尾上菊五郎さんのお嬢さんだけど、歌舞伎の舞台に女優?
盲目の座頭市を演じられるのは市川海老蔵さんだとすると、あの眼力は?
映画 SCOOP! の薬中オヤジ、リリー・フランキーさんが歌舞伎の脚本?
その存在自体が R-15 指定、鬼才三池崇史監督が演出?
これで、ほんとうに良いの?
だけど、これほどの個性と才能を布陣させて挑んだ芝居となると是非観てみたい。
で、大阪公演の初日に観た。
歌舞伎にも通じていない、芝居にも通じていない。
そんな僕が観ても、とにかく面白い。
盲目の侠客座頭の市は、故勝新太郎さんが役者人生を賭けて演じ続けられた役柄だ。
以降、どなたが市を演じられても、どうしても大好きな勝さんの立居が浮かぶ。
そして、これが座頭市?という想いしかなかった。
逝かれてちょうど二〇年経ったこの舞台で、まったく異なる市の姿を観た。
坊主頭で、ひとの動きを超えた抜刀術で斬って舞う盲目の侠客。
見えるはずのものが見えず、見えないはずのものが見える。
朱の衣を羽織って洗練されてはいるけれど。
これは、もうひとりの座頭の市だ。
当代随一の歌舞伎役者って、こんなにも凄い者なのか。
芝居の最中、時々に演者が客を弄る。
幕間ですら、なにかと絡んできて飽きさせない。
歌舞伎役者とは、ひとを楽しませるあらゆる術を心得た玄人中の玄人だと想う。
あっという間の二時間半だった。
明日ご覧になられる方もおられるかもしれないから、詳しくは言わない。
ただ、寺島しのぶさん演じる薄霧太夫との濡場の一幕も必見ですよ。
三池崇史演出六本木歌舞伎、これは病みつきの芝居だ。

三池監督、煙草場では失礼いたしました。

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四百九十三話 Shabby Look!

UNDERCOVER 2017 Fall & Winter Collection に登場したロング・ベスト。
普段は、親交のあるデザイナー達の服しか着ないので、店屋で求めることは滅多にない。
だけど、UNDERCOVER のデザイナー高橋盾氏とはお会いしたことは多分ないと思う。
素直に欲しいから手に入れた。
もう随分こういう衝動から遠ざかって過ごしてきたような気がする。
稼業としての Fashion と、嗜好としての Fashion とは違う。
まったく違うと言ってしまえば偽りだが、好きだけを貫いて食っていけるほど甘い世界でもない。
刻々と流行が変わっても、ほんとうに好きなものはそうは変わらないんじゃないかと想っている。
流行と嗜好が、ぴったりと合致するなんてことはよほどの幸運だろう。
だから、どこかで自己の嗜好を殺して、流行に媚びながらやりくりしていく。
今更愚痴っても仕方がないが、Fashion屋というのも因果な商売だ。
では、そうは変わらない自分にとっての好きは何か?
一九八〇年代、贅沢な服への反定立から生まれたスタイルがあった。

「 Shabby Look 」

駆け出しの頃、倫敦 King’s Road 四三〇番地でその正体を初めて目にする。
Vivienne Westwood と Malcolm McLaren の服屋 Worlds End だった。
当時は、PUNK という概念すら解らなかったが、それでも衝撃的で。
ボロボロの服が、なんでこんなに格好良く映るんだろうか?と想った。
ガキは 単純だから、Fashion って凄ぇなぁとも想う。
あの感動から三〇年が経って。
Malcolm McLaren はこの世を去り。
かつての PUNK の女王 Vivienne Westwood は、Dame の称号を授かって体制側のひととなった。
そして、UNDERCOVER のこのロング・ベスト。
ゴミ袋みたいな素材、ボロボロに破られたリブ、大きな樹脂ファスナー、背面のグラフィック。
さらに、馬鹿みたいに大きなサイズ感。
「みすぼらしい格好」が、格好良いと感じたあの時代を蘇らせてくれる。
ちいさなカルト・ブランドだった UNDERCOVER も今では世界のトップ・ブランドだ。
その立ち位置で、こういった服を創る高橋盾というデザイナーは素晴らしい。

にしても、買ったはいいけど、これって、いつ?どこで?着たものか。

 

 

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四百九十二話 どっちの BABEL が好き?

これが、Boijmans Van Beuningen 美術館収蔵のPieter Bruegel 作「BABELの塔 」
今、国立国際美術館にいる。
さらに。
これも、Pieter Bruegel 作「BABELの塔 」
多分、Wien 美術史美術館にいる。

もうひとつ、Pieter Bruegel 作「BABELの塔 」はあったらしいが。
今、どこにいるのか誰も知らない。
ふたつの「BABELの塔 」
で、どっちの BABEL が好き?
まぁ、一般人にとっては、どっちでも良いはなしなんだけれど。
中世西洋美術愛好家の間では、意外と真面目に交わされる論議のひとつでもある。
なにが違うか?
まずは寸法が違っていて、面積比で Wien 美術史美術館収蔵の方が五倍ほど大きい。
そこで、「大BABEL」と「小BABEL」と呼んで二作品を区別している。
そして、「大BABEL」を観てから二〇年以上経った先日「小BABEL」を初めて観た。
僕は、ある期待をPieter Bruegel 作品に抱いて観る。
くだらない下衆な私見だが。
西洋美術史上でも指折りの謎とされる奇妙な美術が、一五世紀の和蘭陀に出現する。
全くもって Surrealism だとしか言いようのない存在なのだが。
これは、一九二四 年の超現実主義宣言から遡ること四〇〇年前の出来事である。
怪異にして諧謔、仮想であって現実、安堵にある不安。
主犯は、悪魔の画家 Hieronymus Boss で、その悪魔の追随者が  Pieter Bruegel なのだ。
だから、喩え宗教画であったとしても、Bruegel 作品には、その悪魔の足跡を期待してしまう。
その視点から改めて「大BABEL」と「小BABEL」を観てみよう。
要は、どちらが悪魔的か?
「大BABEL」画面左下には、箱船 Noah の末裔 Nimrod 王も登場させ壮大な物語として描いている。
確かに細密ではあるが、病的な仮想現実描写というほどではない。
どこか笑いを誘う諧謔的な人間描写も見当たらない。
「小BABEL」は、どうだろう?
王の姿は見当たらない、主題の塔のみが画面に居座っているだけ。
それでも、諦めず目を凝らしていく。
すると、塔のあちこちに米粒よりちいさな白い点が描かれているのがわかる。
なんだ?さらに目を凝らす。

人間?
塔上階で作業している左官職人が漆喰桶をひっくり返してしまい。
お陰で、下の者が頭から漆喰を被るという場面を微細な筆法で描いている。
Bruegelは、こうした人間を「小BABEL」において一四〇〇体画面上に配した。
現代の CG 技術で、この三ミリほどの人間をトレースし動かしてみると。
創世記時代の左官作業が見事に再現されたらしい。
塔本体は、どうだろう?
新しい煉瓦ほど赤く彩色されている点は、二作品とも同じだ。
だが階調の数が違う。
「小BABEL」では、より細かな階調で塔建設の時間経過を克明に表現していて。
煉瓦を日々ひとつひとつ積み上げていった様子を、現実のものとして受け入れさせられる。
浮かぶ帆船にしてもそうだ。
いくら語っても、これではきりがない。
神は Nimrod 王に怒り、言語による情報を遮断し「混乱」という罰を人間に下した。
それが、主題の本質で「大BABEL」 ではそうなのだろう。
しかし、「小BABEL」では。
塔構造、施工過程、滑車重機、資材運搬、港湾施設の様子が、驚愕の細密画法で描かれている。
そして、頭に漆喰を被りながらも愚直に煉瓦を一段一段積んでいく一四〇〇体もの人間。
「BABELの塔」は文明そのもので、ひとは力を合わせ必死に高みを目指して頑張る。
神様に怒られたって、やめやしない!
画家の労苦のほとんどは、そうしたことの表現に費やされたのではないか?
「小BABEL」の主題は、「Humanism」なのかもしれない。
わずか五年の間に二作の「BABELの塔」を描いた Pieter Bruegel の真意は謎だけれど。
どっちの BABEL が好き?と訊かれたら。

僕は、断然「小BABEL」だ。

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四百九十一話 梅雨に履く靴 

よほどの雨でも降らない限り傘はささない。
梅雨時。
いくらなんでも、今日は傘を持っていけと言われて持って出て。
無事に持ち帰ることは、自慢じゃないが稀だ。
どこかに忘れるか、似ても似つかない別の傘を手にして帰るか。
どうして、いつもそうなのか?馬鹿なの?と訊かれても。
習性だとしか答えられない。
そうやって、長年この歳になるまで傘と縁のない生活を続けている。
じゃぁ、西欧人みたく濡れても気にならないのか?というと、それはそこそこ気になる。
だから、この時期 Gore Tex Parka は必須アイテムとして欠かせない。
雨が降れば、どんな場所にでも着ていく。
先日も、北新地のママさんに。
「ちょっとぉ!何してんの!あんた!裏にまわって!」
黒色の Parka をフードまですっぽり頭から被った姿で扉を開けた途端、そう叫ばれた。
どうやら、配達業者だと思ったらしい。
ちぇっ!この Parka 一着で、 てめぇんとこの客が羽織ってる背広三着は買えるんだけど。
せっかく気を使って、数ある Parka から選んで着てきてやったのに、この仕打ちかよ!
でも、まぁ、ママさんの言分の方が正しい。
洗面所で鏡の前に立つと、配達業者でも上等なくらいで、もう盗人の域だ。
お絞りを手に、おろおろしてるママさんが。
「このジャケット格好良いやん、わたしもこんなん欲しいわぁ」
「嘘つけ!遅せぇわ!」
「それより、なんか運ぶもんあったら言いつけてよ、俺、業者だから!」
しかし、どんなに世間受けが悪くとも、この雨装束を改めるつもりは毛頭ない。
さらに進化させていこうと思う。
喩えば、この靴。
Authentic Shoe & Co. の竹ヶ原君から送られてきた靴で、新作らしい。
Solid Kicks no.6 という名のスニーカーで、とても気に入ってる。
古典的意匠への敬愛と、凡庸であることへの反骨が、竹ヶ原敏之介の源泉だと思う。
スニーカーとしての原型に、軍靴の仕様を取込み、最新機能を付加させた異形の作品。
異形だからといって、履き心地や着脱具合は、微塵も欠いてはいない。
むしろ、向上していると言って良い。
一流の靴職人がスニーカーなんて!と考える靴マニアのひとも少なくないだろう。
正直、僕もそのひとりだったけれど。
このスニーカーには、そうは言わせない奇妙な説得力があるように感じる。
竹ヶ原敏之介の流儀が漂う一足で、安易な再構築とは一線を画した靴じゃないかと想う。
素直さの欠けらもない歪んだ思考と仕事ぶりは、相変わらずだけど。
そして、このスニーカー。
全天候型で、雨天でも平気なのだそうだ。
鬱陶しい梅雨が続く日々。

Gore Tex Parka の足元には、Solid Kicks no.6 を。

 

 

 

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