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六百五十八話 都落ち

“ 我浮黄河去京関 ” この際、いっそ李白を気取って都落ちでもするか。 とは言え、再起を期すわけでもなく自ら好んでなんだけど。 北摂の本宅と海辺の家を行ったり来たりするのも最近辛くなってきた。 昨年夏、母親が逝ったのを機に長年暮らした本宅を手放すことにする。 三七年前。 右を向いても左を向いても豪邸が建ち並ぶ一角に稼ぎに見合わぬ家を建ててみた。 振り返れば、若気の至りで見栄を張ってみたものの、なんか性分に合わなかったようにも想う。 現役時代は、帰って寝るだけの暮しぶりだったので気にすることもなかった。 しかし、引退してこの先の最期をここで終えるのは、どう考えても自分らしくない。 そこで思い立ったのが、嫁の実家でもある築七〇年の海辺の家の解体・再建築だ。 義父からも「この家をよろしく頼む」と言われていた。 一八歳の頃から出入しているので、隣人とも親しい。 そして、なによりこの地が辿ってきた特異な来歴とそれに纏わる気質を気に入っている。 そう決めて、引退後早々に着手したのが六年前。 設計を神戸大学で教鞭をとりながら神戸北野異人館に事務所を構える建築家に依頼した。 「どういった家を望まれていますか?」 「近い将来、此処に夫婦で都落ちするつもりでいます」 「なので、都落ちにふさわしい家を考えていただければ」 「都落ち?それってなんですか?」 「言葉通りですよ」 「豪華で立派な家もいらない、洒落た個性的な家もいらない、目立たず飾らずです」 「一九五〇年代、この海辺の街場によく並んで在った民家の再現を願ってます」 「加えて、骨組みを残しての解体時に敷地から搬出する廃材は最小限で」 「用途を違えてでも可能な限り再度活かして使ってください」 改築には丸々一年を要した。 棟梁をはじめ関わってくれた皆さんには、本当によくやっていただいたと感謝している。 その後も、庭を改庭したり気になる部分に手を加えたりで刻を費やした。 そして、二週間後には本宅を引払い海辺の家に移り棲む。 これで、めでたく都落ちとなるはずである。 あとは、北摂の本宅を引継いでくださる方の暮らしぶりが幸運に恵まれますように。    

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