月別アーカイブ: December 2020

五百六十話 おんな蕎麦打職人

この港街に、これといった不満はないけれど。 ただひとつあるとしたら、旨い蕎麦屋が少ないということかもしれない。 数年前、立喰蕎麦でもなんでもとにかく蕎麦が食いたくなって、暖簾をくぐった。 開店して間もない様子で、およそ旨い蕎麦を食わせるような外観でもない店屋。 手打ちと揚げられているが、なんの期待もせずにいた。 客の姿はなく、Café 風の店内には、愛想のなさそうな店主がひとり。 おんなだ! おんなの蕎麦打職人? 田舎の産地では、縁側で婆婆が蕎麦を打つ姿は普通に見かける。 なので、おんなだからどうだという話ではない。 問題は、蕎麦という食物とこのおねえちゃんの印象があまりにもかけ離れている。 綺麗な顔立ちで、すらっと背が高く、しっくりくるとしたら高級 boutique あたりだろう。 正直なところ、これはしくじったと思った。 「天麩羅蕎麦ください」 「はい」 愛想がないというか、素っ気無いクールな応対は、見た目どおりだ。 しばらくして、台に注文した蕎麦が置かれた。 若い時分から全国の産地で蕎麦を食べ歩いてきたので、良い蕎麦か否かは見ればおおよそ分かる。 色は、更科ほど白くなく薄らとした灰色で、切りは細く角が立ち、程よくシメられている。 なんだこれ!めちゃくちゃ旨そうだわ! 塩を振って口に運ぶ。 言葉で表すのがなかなかに難しい。 更科の洗練された粋と蕎麦産地の土臭い風味が絶妙な塩梅で合わさったような不思議な蕎麦だ。 旨い! 「これなに?おいしいわぁ!」 「ありがとうございます」 「九・一なんですけど」 蕎麦粉九割・割粉1割の九一蕎麦らしい。 「また難しいことを、あんた何者?」 「堂賀の亡くなった先代が師匠で、此処で始めることにしました」 伺ったことはないが、名店 “ 堂賀 ” の名はもちろん知っている。 凛とした口調で不要なことを言わない。 この蕎麦も同じだ。 余計な無駄をせず、正確で丁寧で簡素で旨い。 … 続きを読む

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五百五十九話 地味に聖夜を

行動自粛要請下の二〇二〇年十二月二四日。 ふたりっきりの “ Christmas Eve ” を海辺の家で過ごす羽目に。 まぁ、しょうがないわなぁ。 誰も来ないんだから、飾りつけも適当に安上がりに済まそうとなる。 UNDERCOVERの服に付いてた値札を貼り付けてそれらしくした嫁自前の “ Christmas Wreath ” 。 Florist として活躍しているお隣の幼馴染を煽てせしめた “ Swag ” 。 そして、嫁作成の “ Flower Arrangement ” の真ん中に蝋燭をブッ立ててやった。 なんか花屋の店先のような感じではあるものの、それはそれなりで悪くないような。 長年 Fashion 稼業に就いているとあざとい技も知恵も身につくもんだ。 還暦を過ぎて、ふたりっきりで過ごす聖夜。 なんだぁ、これ! さっぱり盛りあがらんわぁ!  

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五百五十八話 阿吽画

嫁が、玄関の収納扉が使いにくいからと建具屋を呼んだ。 片開きの扉を両開きに変更するらしい。 作って一年も経たない片開きの扉は、嫁の一言で廃棄。 新たな観音開きの扉を製作することに。 ついでに、玄関がもう少し明るくなるよう扉に何んか描いてくれと言う。 もちろん建具屋は絵なんて描かないから、僕が描くしかない。 玄関に描くにふさわしい題材は? そこで、寺や神社の入口に必ずいる仁王像や狛犬を思い出した。 決まって、一方が口を開いていて、もう一方が口を結んでいるあれだ。 サンスクリット文字配列は、まったく妨げのない状態で口を開いた 「阿」から始まる。 そして、 口を完全に閉じた「吽」で終わる。 古来より、日本人は、人間の間柄における状態を表す言葉として用いてきた。 ふたりが、呼吸まで合わせるように共に行動しているさまを「阿吽の呼吸」と言ったりする。 夫婦円満・家内安全・魔除など、なんかよくわかんないけど良いような気がする。 しかし、まさか仁王や狛犬を玄関に描くわけにもいかない。 そういや、 Alice’s Adventures in Wonderland の挿絵にそんなのがあったような。 一方が口を開いていて、もう一方が口を結んでいる百合の妖精だか魔女だかの絵だった。 英国の風刺画家 John Tenniel が、一五〇年ほど昔に描いたちいさな挿絵だ。 これを、襖絵のように描けば良い感じに仕立てられるかも。 下絵から仕上げまで五日を要して、描き終えたのがこれ。 「阿形の百合」  「吽形の百合」 嫁が。 ジジイにしては、良い腕してんじゃん。 俺を、誰だと思ってんだぁ!  

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