五百四十三話 太山寺珈琲焙煎室

自身はやらないけれど、Instagram の効果を実感することはよくある。
一昔前だと考えられないような隔絶された場所に店屋を構える店主がいて。
周りの環境とはおよそ何の所縁もないモノを商って。
ひとを呼び込む。
目当てに訪れる客は、他府県にとどまらず海外からもやって来る。
多分、一番戸惑っているのは近隣に棲む住人たちじゃないかと思う。
休日になると。
普段農作業用の軽トラックしか通らない道に、外車が並ぶ。
作業着とは縁遠い馴染みのない流行りの格好をした人達で溢れる。
その真相を、来る人は知っているが、居る人は知らない。
皮肉だけれど、面白い現象を Instagram は、世界にもたらした。

海辺の家から、車で一五分ほど北に向かう。
途中に新興された街を抜けると昔ながらの山里の風景が広がっていて、山がすぐそこに迫る。
太山寺の伽藍が、その裾野に建っている。
奈良時代の創建で、国宝とされる本堂を擁する古刹らしい。
大きく構える仁王門を潜り、奥に見える三重塔に向かって進む。

石畳の両脇には塔中が並んでいる。
すると、右手の足元に黒っぽい看板が。

“ 太山寺珈琲焙煎室 ”
営業中って、わかるかぁ!
もはや、なにかの冗談だとしか思えない。
此処は、古刹の塔中が建並ぶ参道の一画で、駅前の商店街じゃないぞ。
大体において、誰一人 歩いてもいないし、ひとの気配すら周辺にはない。
とにかく、矢印に順って砂利道を登っていくと、そこには、車数台が停められる空き地がある。
だけど、奥の車が出れない状態にまで重なって埋まっている。
そして、外に置かれた長椅子と卓もすでに満席で、寒空の下立って待っているひとも多い。
店内を覗くと、当然なかも客でいっぱい。
挙句に、この状況を読めずにやって来た雑誌の取材クルーまでもが立往生している始末だ。
なにがどうなっているのか?
壁の貼り紙に、注文の手順が記されている。
読むと、まず注文してから空いてる場所で待つという段取りみたいだ。

一〇種類くらいの珈琲豆が置かれていて、それぞれに解説が記されてある。
Costa Rica 産の Tarrazu 地区 で、生産者が誰で、規格がどうで ……………………。
はぁ?知らんがなぁ!中南米の珈琲農園のおっさんがどんな奴かなんて!
そもそも、珈琲豆にどんな規格が定められているのかすら知らん!
「どれになさいますか?」
「う〜んと、ブレンドってあるの?」
「はい、ありますよ」
「じゃぁ、それで」
「挽き具合と煎り具合は、どうされます?」
「煎り具合? う〜んと、そうねぇ〜、そこはいい感じで」
なんかこうマニアの店屋に素人が紛れ込んだような妙な疎外感を味わう。
外に出て、毛布を掛けて、我慢強く待ってると、マグカップに注がれた珈琲が運ばれてきた。
珈琲中毒にして、珈琲音痴という残念な人間が言うのもなんだけど。
旨かったですよ。
どう旨いかは、知らんけど。

しかし、まぁ、近場でこんな奇妙な現象に出逢えるとは。

 

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