二百九十五話 食品模型の妖しい誘い  

骨董屋を数軒まわって、旧居留地へ、三宮本通を東に向かって歩く。
そうして、これといった収穫もなく昼飯時となった。
昨晩は、韓国焼肉だった。
塩タンに、骨付きカルビに、ハラミに、トッポギに、〆の石焼ビビンバを腹一杯仕込む。
そのせいか、昼飯は、あっさりとしたものでやり過ごしたい。
はずだったのに、この看板が目に入ってしまった。
“ 丸萬食堂 ”
店先の透明ケースに並ぶ食品模型が、誘っている。
酢豚、芙蓉蟹、雲呑湯、五目麺など。
このちょっと色褪せた食品模型の誘惑に敵う理性は、遥か昔に捨て去った。
僕くらいの通になると、そんじょそこらの食品模型に惑わされることはない。
出来立ての真っ新な模型など、相手にせず通り過ぎる。
が、しかし、ほど良く褪せて、朽ちて不潔感が漂う一歩手前の食品模型。
これは、もう、魔性の魅力である。
年増女の妖しい誘惑に等しい。
そんな食品模型が、今こうして誘っているのだ。
腹具合がどうしたとか、体型がどうなるとか、言ってる場合ではない。
“ 据え膳喰わぬは男の恥 ” なのである。
「こんちわぁ」
「いらっしゃい」
「え〜と、酢豚定食と、芙蓉蟹と、それから雲呑湯も頂戴!」
此処、丸萬食堂の店歴は旧い。
居留地時代には、もう在ったと疑われるほどに旧い。
ただ、いつ頃から在ったのかを訊くには、亭主の目つきが怖すぎる。
そして、その老舗が名物としているのは、雲呑だ。
香港の鮮蝦雲呑、上海の菜肉雲呑、台湾の太平燕を現地で喰うより旨いという食通もいたりする。
注文した皿が運ばれてくる。
店構えや、亭主の目つきから、濃厚な味を想像しそうだが、拍子抜けするほどあっさりとしている。
塩や醤油といった調味料は最小限に抑えられ、素材の良さを頼りに旨味を引出すといった感じで。
最初は、ちょっと頼りないが、食べ進むと、上品で確かな味だと納得させられる。
引いた薄味ではなく、攻めの薄味で、明快な個性が味として皿にある。
神戸中華というものが、実際に存在するのかどうかは知らないが。
もし存在するのであれば、多分こうした味なのだろう。
それほどに神戸らしく、神戸人が好みそうな味だ。

下町で出逢う食品模型、その魅力はやはり侮れない。

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