二百八十八話 ANSNAM だけど、激しく、謎です。 

この春は、どうにも商売の調子がいけなかった。
景気のせいでも、天候のせいでも、なんでもなくて自分が悪いのである。
この稼業では、店頭に商品が並んだ時には、もう勝負は半ば結着している。
その手前の仕込み段階がなにより大事で、怠るとこういう羽目になるのだ。
解ってはいたのだが、個人的な事情でその周到さを欠いた。
一言で言うと歳だね。
不測の事態に、上手く思考が働かないし、思うように身体が反応しない。
しかし、済んだことはしょうがない。
まぁ、無事回復し、軌道を修正し、本来の調子に戻せそうなので、もうちょっと頑張ることにする。
そんなこんなで、この六月からは、ちょっと面白くなると思います。
そして、シーズンも終わろうかというこの時期、謎に包まれたこの男の登場です。
ANSNAM 中野靖 二〇一四春夏コレクションがスタートいたします。
先程、仕込み段階が大事だと言ったけど、この男は、一年三六五日、日々仕込みだけをやっている。
料理屋に喩えると。
山海の珍味を探求し、調理法を編出し、盛付皿を焼き、さぁ、いよいよ御客にとなったところで。
手間が懸かり過ぎて、晩飯に間に合わなかったみたいな。
現実には、こんな料理屋はない。
もし、あれば、御客は、席を蹴って帰るだろう。
だが、“ Ristorante ANSNAM ” では、ちっとも珍しい出来事ではない。
不思議なのは、御客が、席を蹴って帰らないということだ。
もはや、晩飯なのか、昼飯なのか、朝飯なのかさえ不明となった料理を、じっと待っている。
謎である。
料理人が謎なら、待っている御客も謎で、供される料理はもっと謎といった具合だ。
料理人は、中野靖で、待たれているのは、Musée du Dragon の顧客様方で。
供されるのは、このデニム・パンツである。
手で紡いだ綿糸を、旧い力織機にかけて、蠅がとまるようなシャトル速度で織上げる。
織組織は、デニム地なのだが、果たしてこれがデニム地といえるのだろうか?
表面には、一般的な防縮剤ではなく、雲南族秘伝の糊が手作業で塗られていて容易には落ちない。
縫い上げられたデニム・パンツは、アトリエで中野靖本人がハンマーで叩いて仕上げるのだそうだ。
個々の工程に、奇才中野靖なりの意図や狙いがあるのだろうが、常人には、その全てが謎である。
ただ、これだけは言える。
これを、デニム・パンツと称するなら、こんなモノは古今東西見たことがない。
ほんと、もう、この男には、諭す言葉も思いつかないし、つける薬も見当たらない。
謎の男、ANSNAM 中野靖です。

喰ってみて、腹壊しても、治し方知りませんので、悪しからず。

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