二百八十七話 港街人情

時が経つのは早い。
義理の母が逝って、ちょうど半年が過ぎた。
母は、この “ 海辺の家 ”を住まいとして、半世紀以上を
暮した。
なので、長年出入していた馴染みの地元業者がいる。
植木屋、電気屋、酒屋、寿司屋、饂飩屋などといった人達である。
屋根瓦の修理、大型塵の始末、水道のパッキン交換、ドアノブの取替、…………………。
暮していると、色々と些細な不具合に見舞われたりもする。
本業以外なのだが、その場に居合せたというだけで、手に負えることは自分達でやってくれる。
手に負えなければ、仲間の業者を連れてきてやってくれる。
この人達がいなければ、母の晩年の暮らしは、立ち行かなかったように思う。
中には、嫁が、哺乳瓶を抱かえていた頃から出入していて、七〇歳も半ばを越える者もいる。
そんな爺さんに、亡くなったと知らせた時は大変だった。
元々、口数の少ない頑固な庭師で、夫婦でお悔やみにやって来たまではよかったのだが。
家にひとり入ってきた庭師の奥さんに、嫁が訊く。
「あれ? 親方は?」
「それが、ちょっと、お嬢ちゃんゴメンねぇ、表には居るんだけどぉ」
「マジでぇ!表でなにしてんの?」
「それがねぇ、入れないって」
「訳わかんない!わたし行って呼んでくるから」
行ったけど、門の前で、宙を睨んで、黙ったまま動こうとしない。
結局、庭師が、仏前に座ることはなかった。
代わって庭師の奥さんが、昔こんな事があったと話だす。
亡き父母が、まだ修行中だったこの庭師に、家の石積みを命じる。
技が未熟だったのか、他に理由があったのか、数ヶ月後に石積みは崩れた。
家の要である石積みが崩れても、父母は庭師を責めなかったという。
改めて今度は、修行中の弟子を退けて親方がとなるところを、それは許さなかったらしい。
「もう一度、君が積め」
無事積み終えた庭師は、後に組合の長として神戸の造園業を仕切るまでになる。
「ああいう性分ですから、お礼のひとつも口にはしていないと存じますけど、そりゃぁ……………。」
その石垣は、阪神淡路大震災で地面に亀裂が入っても崩れず、家人を守った。
そして、家を抱いて今もある。
僕が知らないだけで、他にもこんなやり取りや、付合いがあったのかもしれない。
先日は先日で、家財の片付けをして、庭の世話を終えると、晩飯時となった。
「面倒だから、今晩は、店屋物で済まそうよ」
偽りのない手打ち饂飩とその丼の味を母は好んでいて、身体が辛い時などはよく出前を頼んでいた。
手打ちだからといって、特別に値が高いわけでもなく、どちらかというと安い。
出前の手間を考えると、二人前など気が引けるといった感じだ。
此処の亭主も無口な男で、立入ったことは訊かないし言わない。
これといったお悔やみの言葉もなかったように思う。
その亭主が、岡持ちを下げてやって来て、注文の丼と饂飩を渡し終えると、なにやら差出す。
「これ、食べて」
「なに? これ?」
「破竹なんやけど、灰汁抜いといたから、よかったら食べてぇ」
「おじさん、ええのん? こんなん貰うても」
「破竹なんか、なんぼでもあるがな」
確かに破竹は幾らでもあるのかもしれないが、問題は灰汁を抜く手間だ。
筍よりも、はるかに手間が懸る。
早速、喰ってみると、驚くほど丁重に灰汁抜きされていて柔らく旨い。
ひとの手間賃がなによりコスト高だと言われる時代に、有難い逸品だと思う。
せっかく帰って来たんだから、なんか持って行ってやろう。
そんな気持ちが嬉しい。
母が逝ってから、度々こういう港街の人情に触れることがあって。
その度に想うことがある。

この港街で母は、意外と幸せに暮していたのかもしれない。

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