五百二十八話 俵屋の秋

一ヶ月半ぶりで、ご無沙汰しております。

海辺の家の改築にともなう設計や材料手配や荷物整理やらで、落ち着かない日々を送っていて。
そんな最中、友人から “ 俵屋 ” に泊まるから一緒にどうか?と誘われた。
どうしようかと迷ったが。
友人とも久しぶりだったし、“ 俵屋 ” も久しぶりだったので誘いに乗ることにする。
京都麩屋町姉小路、文豪川端康成が愛した “ 柊屋 ” と向かい合って “ 俵屋 ” は在る。
作家は、 “ 柊屋 ” を何事にも控目な宿と評したそうだ。
その控目加減で言うと向かいの  “ 俵屋 ” は、それ以上だろう。
しかし、そうした究極に控目な宿屋の評判は、驚くほど高い。
おおよその贅を知り尽くした世界の上客が、つまるところ “ 俵屋 ” が一番の宿屋だと言う。
Steve Jobs、Tom Cruise、名前をど忘れしたが BOSS珈琲のあの宇宙人も、皆がそう言う。
なにをもって、そこまで心酔させられるのだろう?
幾度かこの宿屋で床を敷いてもらったが、そこがよく分からない。
妙な話だけれど、そのよく分からないところを気に入っている。
” 俵屋旅館 ” には、つかみどころがない不思議な魅力があるのだ。
設え、接客、料理など、どれもが確かに行き届いてはいる。
だが、格別な何かがあるのか?と問われると答えに困ってしまう。
まぁ、そういう格別を求めるのなら、鴨川のほとりに建つ5ッ星宿屋へと勧めた方が無難に思う。
実際には、” 俵屋旅館 ” にも” 俵屋旅館 ” なりの格別は存在する。
ただ、格別の性格、質、在り方が、普通ではなく難解で、すぐにどうこう言える類のものではない。
そして、客は、ふとした拍子にその格別に気づく。
客によっても、季節によっても、気分によっても、同じではなく、様々に違う格別に触れる。
夕餉を終えての一服 。
廊下の庭側、一段下がった場所に鉄平石を敷いた一畳ほどの喫煙場が設けられている。
床と地面は同じ高さで、足元の硝子窓が内と外を隔てる。
擦り切れて古びたペルシャ絨毯が敷かれ、低く構えた木製ソファーの前に手捏ねの灰皿がひとつ。
壁の脇には、宿泊客が著した数冊の本が並ぶ。
時折、仕切りのない廊下をひとが行き交うが、不思議と気にならない。
僅か数一〇センチ床面を下げることで、 全くの独立した空間として成り立っている。
狭くてほの暗いが、とても居心地が良い。
なにひとつ贅沢な代物は、此処にはない。
それどころか、見上げると空調の管が見えないように杉板が釘で適当に打ちつけられてある。
数寄屋大工として ” 俵屋旅館 ” を支えてきた中村外二氏の仕事ではない、明らかに素人の仕業だ。
気にはなるけど、棟梁をわざわざに呼ぶほどでもない、誰かなんかで隠しといて。
多分そんなところだろう。
絨毯の擦り切れといい、適当な目隠しといい、ざっくりとしていてどこか素人臭さが覗く。
宿屋というよりは住処に近い場所。
たまたまなのだろうけれど、いい加減なというのとも違う。
” 俵屋旅館 ” にはそんな姿もあって、僕みたいな客には、そこもまた格別のひとつだ。
鎌倉時代、本業とはせずに好きな芸事に打込む様を “ 数寄者 ” と称したらしい、
代を譲られた佐藤年さんと写真家だったご主人 Ernest Satow さんも “ 数寄者 ” なのかもしれない。
宿屋としてではなく、自分達がほんとうに居心地の良いと思える空間をひたすら追求された。
それが、いまの ” 俵屋旅館 ” に至ったのではないかと想う。
とにもかくにも、ゆったりとした一晩を過ごさせていただきました。

誘ってくれた友人にも感謝です。

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