五百十話 異人街

 

“ おとな ” という言葉をよく耳にする。
“ おとなの ” とか “ おとなな ” とか、おとなを謳い文句にして何かを訴えたいのだろうけれど。
上等のおとなだけを相手にして飯が食える商いなんて、もうこの国にはないんじゃないかなぁ。
そもそも上等のおとながいるかどうかさえも怪しい。
つくづくみっともない次第になったもんだと想う。
もっとも、その次第を招いたのは誰あろう俺たちだ。
あの怖くて、無茶苦茶で、格好良かったかつてのおとな達を真似ようとしたんだけど駄目だった。
春節祭の神戸元町。
喧騒の中華街が我慢できず坂を登って北野町へと逃れた。
神戸北野町には、ふたつの違った顔がある。
ひとつは、異人館目当ての観光客で賑わう昼の顔。
もうひとつは、会員制の BAR やマニアックな飯屋や休息専用と書かれたホテルといった夜の顔。
怪しげな夜の顔は、昼には覗き見ることさえかなわないといった不思議な街。
北野町という箪笥には、昼の引出しと夜の引出しがあって、同時に開けられることは決してない。
学生当時、嫁が異人館で広報案内のアルバイトをしていた縁で、よくこの街をうろついていた。
たまに通ったあの喫茶店は、まだあるのだろうか?
低層アパートの二階。
剥き出しのコンクリート壁にモノクローム写真が掛けられただけの装いで、それがまた洒落ていた。
家業が休息専用ホテルという友人が、この界隈にいて。
よく受付でアルバイトさせてと頼んだけど、一度も雇ってくれなかった甲斐のない奴。
そいつの話では、喫茶店のオーナーは若い写真家だったらしい。
色のない写真を眺めながら、流れるボサノバを聞き、煙草と珈琲が混ざった匂いを嗅いで過ごす。
くだらないガキに、ちょっとおとなになったと勘違いさせてくれた。
低層 アパートは、汚く古びてはいたけれどまだあって、Café OPEN の札が掲げてある。
扉を開けた。
突然、タンゴのビートに包まれる。
広い床面の中央では。中南米風の男女が踊っている。
入口付近には、リズムを刻む先生みたいなのが。
みんな派手好きの妖怪みたいな格好をしていて、顔はマジで、踊りはガチだ。
えっと?
ここなに?
と、尋ねたいけどとても訊ける雰囲気ではない。
怖いんですけど。
そっと扉を閉めて、見なかったことにする。
錆だらけの階段を降り、ちいさな案内板に目を通した。
Argentine Tango School & Café
なるほどですね、タンゴ教室なのかぁ。
にしても & Café って、あのアウェイ空間で珈琲すすれる日本人がいたらお目にかかりたいわ!
一応の納得に満足していると、目の前にワゴン車が停まって五人の外人が降りてきた。
こっちを睨みやがった。
睨むんじゃねぇよ!このアルゼンチン野郎がぁ!
図らずも異人のコミュニティーに迷い込んだがために、悶着が生じる。
これは神戸あるあるで、意外と神戸人は外国人に寛容ではない。
そして、その外国人も他国の外国人に同じく寛容ではない。
学校でも、職場でも、街中でも、表面を繕って暮らしているという一面がある。
まぁ、この日は、相手の人数も多いし、派手好き妖怪の衝撃もあって、こっちの尻尾を巻く。
にしても、もうあの頃のような喫茶店は、この街にもないのかもしれない。
いや、どこかに一軒くらいは。
とにかく、異人館の STARBUCKS で、なんちゃらラテを飲むような恥ずかしい真似だけは御免だ。
そんなことをするくらいなら、公園で水道水をすすった方がマシだろう。
そうして彷徨った挙句に、ようやく一軒の喫茶店にたどり着いた。

次回に。

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