五百十一話 名残りの珈琲

五百十話「異人街」の続きです。
神戸山本通りを東に向かいながら、ハンター坂までやってきたけど。
ねぇなぁ、喫茶店は。
こうなったら、坂を下っていつもの「にしむら珈琲」にした方が良いかもしれない。
ハンター坂が山本通りに突き当たる角に一棟の旧い雑居ビルが建っている。
昔から建っていて、店子は入れ替わっているものの今もまだ建っていた。
そして、外階段の上り口には、「坂の上の珈琲店 BiVERE 」の看板が。
このビルに珈琲屋なんてあったかな?
あったような気もするし、なかったような気もするけど、とにかくここに入ろう。
もう煙草が吸えて、珈琲が飲めれば、それだけで良い。
二階に BiVERE は在る。
神戸の旧い喫茶店にはよくありがちな木調の構えで、取立ててどうということはない。
扉を開けると亭主が、カウンター越しに。
「煙草吸われますか?」
あのなぁ、俺が平成生まれに見えるのか?
どっから眺めても昭和の遺物を背負ってうろついてるおっさんだろうが!
俺らにとっては、喫が七割、茶が三割で、喫茶店なんだよ!
「いや、なんか吸われるみたいだったんで、それならカウンター席にってことで」
「実は、わたしも吸うんで」
実はって、告げるほどのことなのかよ!
「もうこの辺りも駄目だな、まともな喫茶店ひとつもないよなぁ」
「あぁ、やっぱりお客さんもですかぁ」
「いや、そうやって愚痴りながら此処に流れ着く方が時々おられるんでね」
「たいていお客さんくらいの歳で、風体もそんな感じで」
「もう常連の社長さんにそっくりなんで、入ってこられた時ビックリしたくらいですよ」
「そいつもロクな奴じゃないだろ?客の筋は選んだ方良いよ、でないと店潰れんぞ」
「そっかぁ、それでうちしんどいんだぁ」
笑ってる場合かぁ!
「こんな坂の上の喫茶店には、なかなかひと来ないんですよ」
「そこまで分かってんなら、なんで此処なんだよ?」
「だから、お客さんみたいな昔の北野はって愚痴るひとのために、なんとかやってんですよ」
「雇われの身だったんですけど、オーナーがやめるって言うんで、俺が買取って続けることに」
「前のオーナーは、またなんで?」
「儲からないからやってられないって」
「まぁ、都合俺で三人目なんですけど」
「えっ?その前にも喫茶店此処でやって儲からなくってやめたひといんの?」
「えぇ、最初が北野珈琲館で、次が萩原珈琲館で、その次が俺なんですけどね」
「ある意味、あんた凄ぇなぁ」
そんな話の最中、このおとこ、いきなりシェイカーを振り始めた。
「おいおい、まさかの Cafe Shakerato ってかぁ?」
伊人は、 溶けた氷によって珈琲が薄まるのを極端に嫌う。
シェイカーにエスプレッソと氷と砂糖を入れシェイクすることで急冷した後、グラスに注ぐ。
Cafe Shakerato とは、伊式 Iced Coffee の類で、伊人の珈琲へのこだわりが産んだ面倒臭い飲み物だ。
「これ旨いわ!」
珈琲豆や焙煎の蘊蓄を語るほどに通じてはいないけれど。
この芳ばしい苦味とほのかな甘みは、確かに旨い。
そして Cafe Shakerato 独特の冷たさは、氷の鋭角なそれとは全く異なる柔らかさで心地よい。
「正確にはドリップなんで Cafe Shakerato とは違うんですけど、元々バーテンダーだったもんで」
「ふ〜ん、それで Shaking なのかぁ」
最初は、無愛想だと思ったが、この楠木というおとこなかなかに面白い。
誰が商っても駄目だった場所で、曲者の客相手に、シェイカーで珈琲を淹れて、異人街の昔を語る。
このおとこが淹れてくれた珈琲には。
かつて、Snobbism が漂う異人街だった頃の名残が、微かではあるけれど香っているように想う。
ハンター坂をわざわざ上って、一杯の珈琲を飲んで、また坂を下る。
ただそれだけ。

坂の上にそんな喫茶店がある。

 

 

 

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