三百六十九話 江戸の聖堂と洋菓子

先日、碑文谷での噺。
予定していた仕事が延期になって、三時間ほど暇を潰さなくてはならなくなった。
誘った友人にも忙しいと断られ、これといって行くあてもなく。
三時間という何をするにも中途半端な時間をどう過ごすか?
しかも此処は碑文谷で、閑静な住宅街である。
当然、馴染みの店屋もない。
ひとは、こんな時まったくくだらない事を憶いだすものだ。
“そういや碑文谷といえば、昔、聖輝の結婚式とかいって騒いでいたなぁ”
“たしかサレジオ教会とか聞いたような”
なんで、三◯年も昔のど〜でも良い他人の結婚式なんかを覚えていたのか?
“聖輝の結婚式”とは。
一九八五年バブル期の最中、神田正輝さんと松田聖子さんがご結婚され互いの名からこう呼ばれた。
昔も今も、その件にはな〜んの興味もないが、こう暇ではどうしようもない。
取敢えず行ってみよう。
東急東横線「学芸大学」駅西口の商店街を抜け、目黒通りを跨いで行くとサレジオ教会は在った。
案内板を読むと、その名は通称らしい。
正式名はカトリック碑文谷教会といって、一九五四年にサレジオ修道会によって建立されたとある。
高い鐘塔を備えたロマネスク様式の教会は、
欧州の聖堂に比べると少々貧相だが、日本のものとしてはなかなかに立派だ。
なんとなくこじんまりとしていて、可愛らしくもある。
しかし、可愛らしいからといって、いつまでも眺めていられるほど信心深くもない。
そもそも仏教徒だし、喉も渇いた。
通り向かいに、小さいが品の良いどっから見ても高級そうな洋菓子店がぽつんと営まれている。
“ Patisserie JUN UJITA ”
多分、パテシエが店主でその名を冠しているのだろう。
店に入った瞬間ふくよかな甘い香りが漂う、香りを嗅いだだけでただの洋菓子屋ではないとわかる。
それほどの香りだ。
“ Tarte au Cafe Caramel ”と冷たい珈琲をお願いします。こちらでいただけますか?
厨房との扉の脇に小さな卓がひとつ設えられていて、そこで食べろと言われた。

この “ Tarte au Cafe Caramel ” は、間違いなく完璧です。
アーモンドを練り込んだシュクレ生地、固さを充分に残した大粒の胡桃。
絶妙に塩を含んだ滑らかなキャラメル・サレ、芳醇な珈琲を沁み込ませたジェノワーズ生地。
幾層にも異なった味覚と食感が積み重なっているのだが、それでもバラついた感じはない。
ことさら個性を唱った菓子ではないが、見事に的の芯を射抜いている。
途中、厨房からオーナー・パテシエの宇治田潤さんが顔をだされた。
僕の手からお客様の手へ、菓子を最後まで見届けられる職人であり続ける。
それが氏の理想で、“ Patisserie JUN UJITA ” は此処以外に店舗を構えてはいない。
お若くて愚直だが、気骨のある素晴らしい方だと思う。
訊けば、世界一の腕と称される仏在住のパテシエ青木定治氏の弟子なのだそうだ。

これで、碑文谷にも目当ての店屋ができた。こうしてみると、たまの暇潰しも悪くない。

 

 

 

 

 

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