五十四話 活車海老

先日、後藤惠一郎さんがやって来られた。
晩飯をご一緒にという事になる。
この後藤さん、少々厄介な舌を持たれている。
失礼を承知で言わせて戴く。
六十年近く歳を重ねられて、味覚だけが五十六年前に成長を遂げられたままみたいな。
とかく子供の舌は恐ろしい。
店の雰囲気、盛られた器、食材の蘊蓄、料理人の経歴も、一切が通じない。
名店だろうが、ブランド食材だろうが、不味いと舌が判ずれば箸を置く。
加えて、好きと嫌いが多く徹底している。
この人と卓を囲むといつも想う事がある。
僕は、宮仕えの時期が長かった。
勤め人で対外交渉に少しでも係わる人間にとって、喰いものの好き嫌いは許されない。
海外のいかような食文化にも順応出来るよう訓練される。
話は少し遠くなるが、狼はどうだろう。
野にある狼は肉食だが、一度人間に飼われた犬となると雑食である。
要するに、何ものかに仕えると、防衛本能から与えられた食事に恭順するのではないか。
だとすると、我が儘な舌は、究極の主権と似たような意味合いになる。
究極の主権を有する者とは、王、独裁者、親分、親方、—————。
そして、後藤惠一郎。
⎡親分肌⎦という言葉があるが、⎡親分舌⎦もあるんじゃないかなぁ。
さて、後藤さんが気に入られている飯屋に席を取る。
北新地の片隅にある“ Salle á Manger 角屋 ”。
此処んちのオーナー・シェフ、悪い癖がある。
凄く旨い物とちょっと旨い物を、同じ皿に盛って比べさせようとしたがる。
⎡あんたも、一端の料理人なら凄いのだけを出せよ。⎦と言うのだが直らない。
この日も、生ハムを左と右に、凄いのとちょっとのに分けて卓に置く。
⎡右からどうぞ。⎦
⎡うるせぇよ。何回やりゃ気が済むんだぁ。⎦
しかし、やり方は面倒臭いが、味は絶品である。
⎡ところで、何か旨いもん無いの?⎦
この訊き方も失礼千万だが、この男になら許されるだろう。
手描きの品書きを持って来た。
中ほどに活車海老とある。
値に目をやる。
こいつ、大嘘つきか、大馬鹿野郎だと思った。
⎡これ安いけど、マジで活モンかぁ?⎦
⎡俺が活モン以外出したことありますか? 原価そのまんまですよ。⎦
⎡知んないけど。⎦
⎡とにかく、ややこしい事せずにフライにして持って来て。⎦
薄い衣でサクッと仕上げ、自家製タルタルソースを手早く仕立てやって来た。
⎡旨い。とにかく旨い。⎦
締めに好物のカレーを喰って、勘定となった。
⎡蔭山さん、さっきの海老、仕入伝票見たら間違えてましたぁ。⎦
⎡だから安いけど大丈夫かって言ったろう。⎦
⎡残念だったなぁ。帰るわ。⎦
此処は、生き馬の目を抜くと云われる北新地だ。
甘い話は無い。
後藤さんは、この腕利き料理人の人柄をいたく気に入られている。
僕は、人柄以上に、この男の算盤勘定をとても気に入っている。

どうも、ごちそうさまです。

大阪北新地 屋号:Salle á Manger 角屋

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