五十九話 先生となぎさホテル

人は、生まれ育った地によく似た場所を好むのだろうか。
⎡何んにもないけど良いとこだから、一度行こうよ⎦
⎡何処?⎦
⎡逗子⎦
嫁は、神戸の海辺の小さな街で生まれて育った。
訊けば、一時期“ 逗子 ”でも暮らしたことがあるらしい。
そういえば逗子って?
無頼の作家、伊集院静先生が何かでお書きになられていた。
⎡なぎさホテルは今でも私の夢の中に生き続けている⎦
先生の文章は、失礼ながら器用に楽々とお書きになられているとは思えない。
一文字一文字を、棋士が盤に碁石を置くような慎重さで綴っていかれる。
洗練された文体ではないが、そこが好きだ。
亡くなられた奥様の夏目雅子さんは、もっと好きだけど。
逗子市新宿二丁目十番十八号
⎡なぎさホテル⎦は逗子に在る。いや、在った。
大正浪漫が薫る伝説のホテルは、一九二六年に創業される。
大正、昭和と激動の時代を生き、年号が平成に変わった一九八九年に幕を閉じた。
地元では保存運動もあったらしいが、取り壊しと決まる。
平成元年、二九歳だったので、行こうと思えば行けた。
泊まろうと思えば泊まれた。
残念でならない、一目なりとも遭いたかった。
嫁は、⎡なぎさホテル⎦につづく浜辺で子供時代の夏を過ごしたというのに。
常連だったという知り合いの方にお尋ねした。
よく見かけた顔ぶれは、時代の先におられた文化人の方々だったという。
映画監督、銀幕スター、ミュージシャン、作家、画家、皇族方。
お忍びで、海辺の木造二階建ての小さな古色ばんだホテルに集う。
先生が⎡なぎさホテル⎦に出逢われた時、色んな事情で無一文だったらしい。
当時の支配人が、⎡ある時払いの催促無し⎦でホテルに住まうように勧める。
博打を打ち、大酒を喰らい、文学に浸り、短編小説に挑み、人気女優に恋して。
⎡なぎさホテル⎦での寄宿暮らしは七年余りの歳月に及ぶ。
離れるきっかけは、人気女優との結婚だった。
最近、書店で一冊の本を見かけた。
⎡このホテルは今でも私の夢の中に生き続けている⎦と帯に付されている。
題名は⎡なぎさホテル⎦、著者は伊集院静。
この世に亡いとなると想いは余計に募る。
在りし日の⎡なぎさホテル⎦。
そして、在りし日の夏目雅子さん。
相米慎二監督の⎡魚影の群れ⎦でトキ子を演じられた。
ガニ股でお尻を揺すって房二郎から歩き去るトキ子の後姿。
下北半島大間に漁師の娘として育ち、漁師の女房として生きる女の仕草。
練られた台詞も持ち前の美貌も封じて臨まれた最高のワンシーン。
僕にとって、かけがえのない⎡昭和の肖像⎦です。
⎡いつまでも昔の女引きずってんじゃないわよ。馬鹿⎦
あぁ~、言われてみてぇ~。
蓮池の向こうから夏目雅子さんに。

この写真、先生と夏目雅子さんが暮らされた神奈川県鎌倉市由比ガ浜の海岸です。

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