三百八話 わさびと魚

神戸元町で、魚を喰いたくなったら此処が良いと思う。
銭に糸目をつけないって言うんなら、他に敷居の高い割烹や寿司屋もあるけど。
そこそこの値で、文句なく旨いとなると、やっぱり此処が思い浮かぶ。
週の始めを港街に暮し、坂を下れば漁港があって、昼網の魚が安値で手に入る。
そんな具合なので、魚貝の類に大枚をはたく気にはあまりなれない。
だからと言って、鮮度や味を我慢しようなどという気にもなれない。
銭はけちるし、口はうるさいという料理屋にとって一番いらない客である。
そんな客でも納得させるというのだから、この飯屋はなかなかのものだと思う。
“ わさびと魚 ” という解り易いような難いような妙な屋号を掲げていて。
元町駅から鯉川筋を北へすこし上がった通り坂の東側で営まれている。
屋号に謳っているとおり、品書きに肉気はなく、魚と季節ものの野菜だけしかない。
かんぱち、蛸、鰯を刺身で、好物の鰯は煮付けでも注文する。
鱧は、品書きには天麩羅とあったのだが、湯引きにして梅肉を添えて貰う。
鱧は、此処元町から電車で一五分ほど西へ行った須磨の沖合でも良いのが獲れる。
神戸では、” 地物 ” のひとつとして数えられる食材である。
夏には欠かせない魚で、炙っても、天麩羅でも、鍋でも旨いのだが、僕は、湯引き派だ。
皮をそのままに供してくれるのも嬉しい。
鯛のかま、鮭のはらすは、塩焼きで、鰆は、西京焼きで、少量づつ三品盛りに。
開店以来六〇年の売りは “ 焼き魚 ” だといわれるだけあって、三者三様見事に焼きを加減してある。
特に、はらすは、どんなはらすでもそうだが、脂がのっていて焼いて喰うとこの上ない。
ここまで魚が続くと、さすがに箸を休めたくなる。
そこで、季節野菜の炊き合わせと、無花果の揚げ出しで一息入れさせてもらう。
此処には、焼き魚の他に、もうひとつ売りがある。
“ 鯖鮨 ”

なのだが、残念ながら今晩は売切れ。
鯖好きの嫁が、執拗に迫っても無いものは無い。
それでも諦めない。
酔っている時は、なおのこと諦めない。
「 鯖が食べたい!今すぐ食べたい!」
亭主が、脇の若い衆をつつく。
「〆鯖を出せぇ!二切れか三切れでもええから、とにかく早よ出さんかぃ!」
「御客さん、鯖鮨がないだけで〆鯖なら大丈夫ですよ、こんだけですけど、ほら」
鯖鮨は好きだが、〆鯖に限っては苦手という
僕をよそに、小皿に盛られた鯖を口へと運ぶ。
「う〜ん、ちょっと見た目に赤味が足りないけど、上品で、塩梅も丁度で旨い! 」
「旨いの?」
「うん、旨い! 食べてみるぅ? 一切れあげようか?」
「いらない」
そうして、嫁は鮭のおにぎり、僕は蛸茶漬けで、箸を置く。

あ〜、もう当分の間、魚の顔を見たくもないわ。

 

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