三百七話 同病 The Crooked Tailor

誤解を招くかもしれないが。
僕は、服を創ったり売ったりして稼いだ銭を糧に生きてきた。
その間、自分の嗜好を仕事に持込んだことは一度としてない。
創り手の時は、クライアントの意向が全てだったし、
売り手の時は、顧客の欲求を満たす事が全てだった。
だから、クライアントに対しても、顧客に対しても、言う事はひとつ。
「なんだって、やれますよ」
Musée du Dragon が、こだわった服屋だとよく言われる。
それも、僕がこだわってるんじゃなくて、顧客がこだわられた結果そうなっただけだ。
こういう話をすると。
「嘘でしょ? もし、そうだったら、ちょっとした詐欺ですよ」と、言う奴もいる。
だが、そういう奴に限って仕事が半端で、もうこの業界にはいない。
生残る方が圧倒的に少ない、それがこの稼業の実像なんだろう。
幸い良いクライアントに恵まれ、良い顧客に恵まれ、三十五年近くなんとかやってこれた。
そして今、幸運ついでに、ささやかな我が儘を叶えてみようかと思っている。
終幕くらい、自分と気の合う相手と、自分が創りたいものを創って、それをお見せして引きたい。
な〜んて青臭いことを、昨年くらいから考えていた。
ちょうどそんな折、中村冴希君が、The Crooked Tailor を始めると言ってきて、
彼のアトリエで、彼自身が縫った服を見ることになる。
服創りということに関して言えば、この人は、間違いなく懐古主義者だろう。
若いのに、明らかに精神病理学上の歴とした病に冒されている。
服飾史に埋もれた十九世紀の服創りを仕立製法から検証し、既製服として蘇らせようというのだ。
衣服が、耐久消費材にまで成下がったこの現代にである。
服屋の店主としてではなく個人的な嗜好として、この病んだ試みにかつてないほどの魅力を感じた。
なぜなら、僕は、こと服に関してだけではなく、全てに於いて懐古主義者だから。
湿気た巴里の下町をひとりで徘徊し、
オスカー・ワイルドの居宅だったという妖しげな宿屋に泊まって、
朽ちかけたような食堂で飯を喰い、
かつてコルビジェが愛したという煤ぼけた眼鏡屋で眼鏡を物色し、
盗人か、故買屋か、少なくとも真っ当な骨董屋とはいえない店屋で古物を漁る。
そんな時間を至福とする病人である。
歳も離れているし、彼が、服だけでなく他に関しても病んでいるのかは訊いたことがないけれど。
The Crooked Tailor 中村冴希君と、このタイミングで出逢えたことは、僕にとって幸いだった。
その事だけは、間違いない。

さて、どんな Crooked な顛末になるのやら。

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