五百九十話 里山からの贈りもの

世話になった画家が、東京から故郷の丹波篠山に移り住んでからもう随分になる。
画家本人は、もう亡くなってしまったけれど、その女房は、その後もこの里山に暮らしている。
渋谷のど真ん中にアトリエを構え、時代の最前線で奮闘する業界人達が集う。
画業への名声と共に華やいだ日々が、あたりまえのように続いていた。
唐突に、そうした東京での日常と対極にある暮らしに転ずると云う。
無理だと思った。
或日、画家の女房が、うちの嫁に訊いた。
「ねぇ、日々のご飯って、どうやってつくるの?」
「はぁ?どうやってって、今までどうしてたの?」
「お菓子ならつくれるけど、ご飯なんかつくってこなかったから」
画家も忙しいが、画業を支える画家の女房も忙しい。
打合せ中の客に供する菓子はつくれても、終わった後は外で会食となる。
なので、基本、日々の飯はつくらない。
しかし、皆が案じた画家夫婦の里山暮らしも年を重ねる毎に板についてくる。
そんな画家の女房と久しぶりに逢って、神戸元町で中華飯でも食おうとなった。
画家が逝ってから祥月の十二月は毎年笹山を訪ねていたのだが、去年は遠慮したので二年ぶりだ。
駅前のベンチで降ろしたリュックから取り出した包みを 渡される。
「山の地物、自然薯と黒豆味噌だよ」
「自然薯って、おろしたり、灰汁抜いたり、面倒臭くないの?」
「まぁ、そうでもないわよ、意外と旨いからやってみて」
ひとは、変われば変わるものだ。
Dior のロング・コートを羽織り、芋と味噌を入れたリュックを背負って、、山から下りてくる。
画家の女房ならではの里山暮らしを、それなりに上手くこなしておられるように想う。
海辺の家に戻った翌日、里山の贈りものを食卓に。

おろし金で自然薯を擦りこね鉢に移し、出汁でのばしていく。
予想通り結構面倒臭い。
とはいえ、やってるのは全部嫁だけど。
一品は、鮪の山かけ。
もう一品は、白葱を入れた黒豆味噌の味噌汁に自然薯を落とした椀物。
鮪の山かけを、白飯にのせて食ってみる。
漢方薬にも似た自然薯独特の臭みもそれほどなく、長芋よりも味は濃い。
鮪は鮪で旨いけれど、これはタレに漬けた焼肉にかけて丼にしても良かった。
と思っただけで、口には出さない。
黒豆味噌の味噌汁は、どうだろう?
これは、文句なく旨い!
素朴だが品の良い芳醇な黒豆味噌の香りに、自然薯の風味が引き立つ。
食べ慣れない者にはよくわからないが、これが山の滋味とかいうやつなのかもしれない。
馴染みのない味なのに、なぜか懐かしい。
後日、達筆でしたためられた礼状が、画家の女房より届く。
相変わらずの巧みな毛筆さばきだが、あまりに巧みすぎて、読むのにいつも苦労する。
このところ、ようやく手紙の文面に連れ添った画家が登場しなくなった。
だいぶと時を要した末に、辿り着いたのだと想う。

里山の冬は寒いので、お身体を大事に暮らしてください。ごちそうさまでした。
 

 

 

 

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