五百十六話 洛北の越中

街場の飯屋を巡っていると妙な亭主に出逢うことがある。
飯屋も商いに違いない、半端なことではすぐに潰れてしまう。
だから、真面目におかしい。
通ってくる常連も変わっていて、熱心にそのおかしな亭主の商いを支えている。
細々とした構えではあっても、そうした飯屋は街場の大切な財産だ。
大事にしなければならない。
洛北で、日本酒目当てに暖簾をくぐった蕎麦屋。
蕎麦屋の不毛地帯と言われた京都だが、近頃ではそうじゃないという噂を耳にした。
京都の蕎麦屋で初ミシュラン掲載となった “ じん六 ” をはじめ、洛北は特に蕎麦屋激戦区らしい。
京都府立植物園北側、上賀茂のこの辺りは高級住宅街で小洒落た店屋が並ぶ。
そのまったくの住宅街奥、およそ店屋などありそうにもない一画にポツリと在る。
“ 大坪屋彦七 ”
カウンター席と奥に小上がりがふたつで、十四か十五人も入れば満席だろう。
亭主ひとりで切盛りしている。
街場にある普通の蕎麦屋で、特段の風情があるわけではない。
亭主の愛想も悪くはないが良くもなく、寡黙そうな親父だ。
小上がりでもいいか?と訊くので、そうする。
日本酒目当てなので、いきなり蕎麦ともいかず品書きを開く。
鴨抜き?天抜き?なんだぁ?ちいさく注釈が書かれているのに目を通す。
鴨抜きは鴨南蛮の蕎麦抜きで、天抜きは天麩羅蕎麦の蕎麦抜きらしい。
謎すぎる!
さらに、“ 手隙の際に注文していただく品々 ” とある。
ほぉ〜、どんな手の込んだ料理を供するつもりなんだろう?
玉子焼、鴨焼、山葵芋、蕎麦がき善哉などが、その品々の正体らしい。
いやいや、それって一般的には待合いに出されるやつだろ!
良いぞぉ!この亭主は、なかなかの掘り出し者かもしれない。
とりあえず、蕎麦屋定番の焼味噌と甘海老の塩辛を。
ん?白海老?富山湾近郊ではよく知られてはいるけれど、他所で出合ったことはない。
白海老は、あっという間に鮮度が落ちてしまい、ちょっとでも痛むと食えたものではない。
地元では刺身もあるが此処は京都、さすがにそれはないので素揚げとかき揚げで注文する。
さらに、手隙そうだから玉子焼も。
これで、肴は整った。
酒の注文は、日本酒通の連れに任してある。
その連れが言うには、なかなかの品揃えらしく、入手が難しく珍しい蔵元の酒もあるのだそうだ。
富山から能登辺りの酒蔵を中心に揃えられている。
途中亭主が勧めてくれた蛍烏賊の唐揚げを肴に飲んでいると、今、洛北に居ることを忘れてしまう。
それほどに、越中の滋味が沁みる蕎麦屋だ。
連れがしきりと感心しているので、なに?と訊くと。
“ 酒造りの神様 ” の異名を持つ日本最高峰の醸造家が仕込んだ酒があると言う。
八〇歳を超える杜氏、農口尚彦は、山廃仕込みの第一人者として知られる石川の蔵元で。
亭主の話では、地元富山の友達が定期的に送ってくれるらしい。
まぁ、素人にはさっぱりだが、わかりあえる亭主と客で、連れだったこちらとしても甲斐がある。
その素人にもわかるのは、肝心の蕎麦だ。
出汁のキレは江戸前そのものとはいかないが、関西人としては程良い塩梅かも。
なにより、この亭主の “ 切り ” の腕は凄い。
どうやって蕎麦切り包丁と駒板を操っているのか、とにかく細く角立ちが良く精密だ。
夏場にもう一度、今度は新蕎麦目当てで訪れたいと想う。
夜更けになると、席は常連さんで埋まり、それなりに繁盛している。
もう、“ 手隙の際に注文していただく品々 ” の注文は叶わなさそうだ。
宵の口から夜更けまで、蕎麦屋での長居は無粋だと承知はしているけれど。
そうさせてしまうこの蕎麦屋の亭主が悪い。

いやぁ〜、楽しかった!ご馳走さまでした。

 

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