四百八十三話 由比ヶ浜伝説

街場の店主から語られる物語の舞台は、大抵がその店屋だ。
舞台がなくなってしまっては、物語の値打ちも失われてしまう。
旅先で供される旨い地物に箸をつけながら。
ほら、まさに腰をかけておられるその席から.......。
などという至極のひと時を偶然にも過ごせたなら、得難い幸運に恵まれたといって良いと思う。
ここ由比ヶ浜に通うようになったのも、そうした幸運が重なったからかもしれない。
湘南の小さな街の小さな名店には、昭和の伝説がひっそりと継がれている。
無頼派作家と銀幕女優との仲を結んだ小花寿司の店主、三倉健次さん。
昭和とともに消えた「なぎさホテル」を語る獨逸料理屋 Sea Castle の女主人、Karla 婆さん。
相応に癖は強いが、僕にとっては、かけがえのない店屋であり人でもある。
しっとりと落ち着いたこの浜も、桜が咲き始めると賑やかになり、夏にはひとで溢れる。
できればそうなる前に訪れたい。
いつものように Manna で晩飯を食う。
この Manna の女料理人 原優子さんは、以前 Nadia という飯屋を長谷で営まれていた。
Nadia 時代から、伝説の女料理人が湘南にいると噂されるほどの腕前で、文句なく絶品の味だ。
まぁ、こちらの方の伝説は、語るより調理場での彼女の仕事振りを眺めたほうが分かりが良い。
忽然と姿を消すひとらしいが、今なら間に合う。
この歳になっても早食いは治らず、宿に帰るにはだいぶと間がある。
そういや、閉じられていた湘南屈指の名門 BAR が、再開したと聞いた。
駅としてはひとつ鎌倉寄りの和田塚だが、由比ヶ浜のと言っても間違いではないほどに近い。

THE BANK

ひと通りも絶えた薄暗い路を駅から浜へと向かうと三叉路に行き当たる。
中洲に乗りあげた朽ちかけの座礁船のような風情で、もうすでに建物自体が異形の様相である。
家屋ほどのちっちゃなビルで、灯が妙に怪しい。
これが、あの聞こえた THE BANK かぁ?
一見の身で BAR の扉を開けるには若干の躊躇が伴うものだが、ここは北新地や祇園や銀座ではない。
そもそもこちらの風体も怪しいが、この BAR も充分に怪しいんだから、どっちもどっちだろう。
真鍮製の取手に手をかけ年代物の扉を引く。
ほどよく暗い店内は、いらぬ手を加えず簡素で古く褪せた感じのままにある。
どこかピシッとした空気感も漂うが、名門 BAR にありがちな拒むような雰囲気でもない。
くだけていて、ちゃんとしている。
不可思議な BAR だが、とても居心地が良い。
肝心の酒も丁重に供される。
ピックで削られた Lump of Ice も見事だし、肴の Fig Butter も旨い。
だけど、THE BANK の真髄は、この場としての佇まいにこそあるのだと想う。
ひとりのおとこの美学が濃密に凝縮された空間。
酒肴とはなにも口にするものだけではない、この BAR では 空間そのものが上等な酒肴として在る。

渡邊かをる

VAN Jacket の宣伝部意匠室長として、日本のメンズ・ファッション創成期を牽引した後。
アート・ディレクターとして数々の作品を手掛けられた業界の大物である。
その造詣と見識は、服飾だけでなく陶磁器・美術全般にまで及ぶ。
僕は、世代が少し下だったので、遂にお目に懸かることは叶わなかったけれど。
たいそう格好良い方だったと聞く。
その酒と葉巻を愛したおとこが、 理想の BAR として構えたのが THE BANK である。
設計は、日本を代表する空間演出家の片山正道が担った。
片山の事務所 WANDERWALL の初仕事だったのだそうだ。
場所は、旧鎌倉銀行 由比ヶ浜出張所として昭和二年に建てられたこのビルが選ばれた。
こうして、二〇〇〇年四月。
作家、画家、写真家など多くの文化人や、地元の商店主達が夜毎集う奇妙な酒場の幕が上がる。
そして昨年、渡邊かをるの逝去とともに THE BANK は伝説上の BAR となった。
外観はそのままだったが、家具や備品は全て撤去され、もぬけの殻。
そんな THE BANK に再び灯が燈るという。
それも家具や備品もそのままに。
ちゃんとした志をもったひとが現れた時には、お戻ししたい。
そういう想いで、ビルの所有者が 大切に保管していたらしい。
志を持ったひととは、片山正道で、WANDERWALL が THE BANK のこれからの運営を継ぐ。
実際の切盛りは、湘南をよく知るふたりの男女で。
酒は、鎌倉の BAR で修行した野澤昌平さんが、料理は、葉山出身の荒井惠美さんが担っている。
帰りがけ荒井さんに。
「良いお店ですね」
「 ありがとうございます」
「お近くにお住まいなんですか?」
「うん、近いといえば近いけど大阪だね」
「ええっ!うそぉ〜!なんでぇ?」
「わかんない けど、近々またお邪魔するのだけは確かだね」
渡邊かをるさんが、よく口にされていた言葉があると聞いた。
俺は、やかましいモノが好きなんだよなぁ。
やかましいモノとは、多分骨董屋の世界で使われる業界用語だろう。
とにかく希少で、手放すと二度と手に入らないモノ。
さらに、語りどころの多いモノを意味する。
まさに、この THE BANK がそうだ。

そして、浜の新たな伝説がまた始まる。

 

 

 

 

カテゴリー:   パーマリンク