四百五十七話 港街のみなと

暑い。
暑すぎる。
な〜んも喰いたくねぇ。
暑さのせいか? 歳のせいか? そのどちらもか?
いづれにしてもやってられない。
嫁に。
「暑い暑いって、うるさいよ!」
「念仏じゃないんだから、唱えたって涼しくなんないでしょ!」
「それより、昼御飯どうする?」
そう言われても。
「いらない、おひとりでどうぞ」
「ふ〜ん、土用の丑の日だから鰻でもと思ったけど、そんな調子じゃ駄目だね」
「えっ? 鰻? 何処の? 横丁? 青葉? 三宮の竹葉亭? あそこはもうなかったよなぁ?」
「あらんかぎりの屋号を口にするんじゃない!」
「どうせ行かないんだから関係ないじゃん、食欲ないんでしょ?」
「いや、それはどうでしょうか?」
「鰻は食事というより薬ですから」
「食欲増進、滋養強壮の妙薬としていただくというのであれば悪くないかもしれませんよ」
「先ほどもお伝えいたしましたが、少し弱っておりますので、いただけるものであれば……………」
「あぁ、面倒くさい! で、行くの? 行かないの?」
「行きます、行かせていただきます!」
鰻があまり好物でない嫁が、鰻をと言い出すのは珍しい。
鰻を喰うならひとりで、というのが常である。
嫁が鰻を旨いと評したのは、ただの一度しかない。
原宿の大江戸で、小一時間待たされた挙句出てきた鰻重を口にした時だけだ。
今日は、何処か目当ての鰻屋でもあるんだろうか?
こっちは、鰻ならなんでも美味しくいただける派なんで何処でも別に構わないけど。
江戸焼鰻の名店として地元神戸ではよく知られた店屋があるという。
僕は知らなかったけど、かなり旨いらしい。
さすが、鰻通だった義父に育てられた鰻嫌いの娘だけのことはある。
東門通商店街の中ほどに建つ古びた雑居ビルの奥へ。
江戸焼鰻 みなと と染め抜かれた暖簾を潜る。
飴色に薄暗く煤けた店屋で、入ってすぐが付け台、台を曲がった奥が小上がりという造りだ。
一目で此処は良い鰻屋だと分かる。
昨日今日では、この飴色にはならない。
清潔感漂う白木の明るい鰻屋は、もうそれだけで喰い気が減退する。
鰻屋の良し悪しは、喰う前にその店屋の色合いで決まるというのが持論だから。
「鰻丼を、御飯多めに、それと肝吸いを」
背を開き、炭火で焼き、丹念に蒸し上げ、仕上げに炙る。
腹を割いた地焼きを旨とする大阪焼鰻に比べて手間がかかるのが江戸焼鰻だ。
丼の蓋を開ける。
これまた飴色に照かった鰻が目に、甘く香ばしい香りが鼻に。
鰻とタレが染みた飯を箸ですくって運ぶ。
なんの造作もなく、口の中で鰻が溶けて消えてゆく。
これは、もう堪りません。
先ほど鰻は薬だと説いたが、これは薬は薬でも麻薬の域だ。
これほどの高揚感と恍惚をもたらせてくれる喰いものが他にあるだろうか?

昼下りの至福の時を、港街の みなと で過ごす。

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