四百三十八話 一期一会

このところ一週間ほど、昼飯は蕎麦という日がずっと続いている。
Musée  du Dragon から二分ほど歩いたところに一軒の蕎麦屋が在って。
創業は、昭和五〇年だったと思う。
何故そんなことを憶えているのかというと。
Musée  du Dragon  も先代が営んでいた頃から数えるとほぼ同じ年数になるから。
目と鼻の先で、互いに四〇年間稼業として店屋を切盛りしてきたことになる。
僕とは、もう三〇年を超える付合いだ。
この亭主 、とにかく頑固で気難しい。
店屋の 亭主として許される限度を完全に超えている。
本来、こんな調子で商えば、店はたちどころに潰れてしまうはずだ。
なにより、まったく我慢ということを知らない。
僕も知らないが、亭主はもっと知らない。
なので、客に平気で怒鳴ったりもする。
そうやって、客の立場である僕には一番性に合わない商いの姿勢を見事に四〇年もの間貫いてきた。
大嫌いだ!
その大嫌いな蕎麦屋に三〇年以上ずっと通い詰め、亭主ともなんとなくではあるが付合ってきた。
では、我慢出来ない亭主と客をここまで繋ぎ止めてきたものは何だったのか?
それは、この亭主の打つ蕎麦の味だ。
旨い蕎麦を食うために暖簾を潜る。
その単純で明快な理由に尽きるのだろう。
亭主の蕎麦は、命を懸けた蕎麦だと言っても大袈裟ではないと思う。
満身創痍、その身を削って打ってきた蕎麦だということには間違いはない。
殻付きの蕎麦の実を石臼で挽き、篩で蕎麦粉を導くというところから亭主の仕事は始まる。
所謂「玄蕎麦の挽きぐるみ」である。
蕎麦粉を塗りの捏ね鉢で練って鞠状にまとめ、それを蕎麦打ち台に下打ち粉を打ってから伸ばす。
丸だし、角だし、幅だし、仕上げのしといった手順で伸ばして出来た生地を畳み包丁で柵状に切る。
そうして、茹で、巻き簀を敷いた皿に盛って供す。
こうやって書けば、たった四行ほどのことではあるが、亭主の人生そのものでもある。
南は九州から北は北海道まで、蕎麦を仕入れる産地を追って移していく。
蕎麦によって、挽き方も打ち方も出汁の合せ方も、その都度に変えてゆく。
蕎麦という簡素な喰物が、一期一会だと云われる所以は其処にある。
たかが蕎麦だが、されど蕎麦なのだろう。
そういった蕎麦打ちの名人である亭主に、三月一九日を以って引退するのだと告げられた。
「なんでやめんの?」
「もうこれまで通りという自信がおまへんねん」
「ふ〜ん、蕎麦屋が蕎麦打ちに自信が持てないって言うんなら、そらぁ、やめるほかないわなぁ」
こういったことに、客といえど他人が口を挟むものではない。
やめると言うのなら、やめれば良い。
「蔭山さん、手仕舞いにこの蕎麦食うてみてください」
阿波の祖谷から取寄せた蕎麦だという。
「へぇ〜、そらまた儲からんことするんやなぁ」
「仕舞いやねんさかい、まぁ、せめてもちゅうことですわ」
祖谷の蕎麦は、他の産地のものと比べ多分三倍を超える値だろう。
取れ高も僅かだと聞く。
その分、甘みも香も強い蕎麦だ。
この蕎麦にして、この亭主が打つのだ。
不味いわけはなく、飛切りの香と味を堪能する。
食い終わって。
「ごちそうさん」
ごくろうさんとも言わない、長い間どうのとも言わない。
蕎麦とも人とも一期一会なのだから。
僕は、無類の蕎麦好きなので、これから先も蕎麦を食い続けるのだと思う。
だけど、その度に、この時の、この一枚の蕎麦を憶い出すのかもしれない。
そして、もう一度あの蕎麦をという未練を腹に収める。
そう想うと、蕎麦屋の亭主との出逢いと付合いはどうだったんだろうか?

幸せなんだか、不幸なんだか。

 

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