四十五話 品川宿

ANSNAM の中野君に芝浦に呼び出された。
全く人使いの粗い野郎だ。
しかし、芝浦?
北品川で飯喰えるな、悪くないかも。
僕は、東京で好きな場所が幾つかある。
筆頭は、神楽坂。
此処、夏の暑い盛り、出来れば夕暮時に行ってご覧なさいよ。
お座敷前に、芸妓さんが銭湯から出て支度に向かう。
浴衣姿で、手拭を手に、うなじの汗を拭いながら下駄履きで歩く。
ゆらめく色香が漂う。
あ~、もう堪りませよ。
どうも、すいません。
眺めるだけですから。
そして、北品川。
こっちは、金筋の芸妓さんと違って、少しやんちゃなお姐さんがおられる。
ちょっと前の昼、行きつけの蕎麦屋が閉まっていて、一見で天麩羅屋に入った。
店は小さいながら、磨き上げた無節の木曽檜が台に据えられている。
代を継いだのか、若いのに、いかにも江戸前職人という風情の亭主に迎えられた。
カウンターに落着くと、隣には二十代のお姐さんが。
客は、お姐さんとふたり。
金髪、スッピン、ジャージ姿で、ビールを飲みながら天麩羅をつまんでいる。
亭主と喋っていると横合いから声を掛けられた。
⎡ねぇ、お兄さん、関西の人?⎦
⎡兄さんは外れだけど、関西の方は当ってるな。⎦
⎡お姐さん、昼前からご機嫌だねぇ。⎦
⎡野郎が浮気しやがってさぁ、昨日店引けてから飲みっぱなし。⎦
陽の高いうちに聞く話でもなさそうだし、天麩羅屋で喋る話題とも思えない。
が、せっかくなので少し付き合うことにした。
案の定、大した話ではなかったが、お姐さんにとっては一大事なんだろう。
⎡しかし、宵越しのヤケ酒で、締めに油もんって、姐さんもさすがに若いねぇ。⎦
⎡あたし? 若いって? もうババァだよ。⎦
あんたが、婆なら、こっちはとうにあの世へ逝ってるよ。
こんな他愛無い痴話言も、焼け残った戦前の路地店で聞くと、それなりの情緒がある。

“ 品川の客ににんべんのあるとなし。”
人偏のあるのは⎡侍⎦、ないのは⎡寺⎦。
薩摩江戸藩邸の勤番武士と芝増上寺寺中の修行僧。
口伝によると、品川宿は溢れんばかりの独身男性で賑わったという。
ビルに囲まれた数本の路地に、微かに残る善悪を超えた色街の匂い。

お姐さん、次はきっと良い男に違いないよ。

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