百四話 ANSNAMの夏

ちょっと前の話になるが。
連休なかほどのある日、ひとりの男がやってきた。
にわかに大阪の空が翳り、強風が吹荒れ、雨が降りだす。
⎡どうもで~す⎦
ANSNAMの中野靖君だ。
秋冬色をしたボルドーの夏物T-シャツにネイビーのボトムを合わせて。
背中には黒の大容量リュックを背負っている。
⎡なに?その死体袋みたいなの⎦
⎡失礼な、何言ってんですか⎦
⎡御客さんのとこへ行ったら、僕の服より皆興味しめして何処のですかって訊かれるんですから⎦
⎡何と比べて何の自慢してんだよ⎦
⎡死体袋はどうでもいいんだけど、中野君の服評判良いよ⎦
⎡なんでだろうね、よく解んないけど⎦
⎡いい加減にそういう疑問をもつの止めて貰えますぅ⎦
⎡自信を持って販売してくださいよ⎦
⎡無理だね⎦
中野君と前後してANSNAMの夏に向けた最終アイテムが到着する。
Musée du Dragon のために別製作された Marine Parka なんだけど。
ANSNAM の最終というより、予定していた全ブランドの中での最終アイテムといっていい。
繊細そうに見えて、僕との仕事をいつも後回しにするという図太い神経を持ち合わせている。
しかし経緯はどうあれ、この Marine Parka なかなか憎い仕上がりになっている。
まず素材が偏質的にこだわっている。
本人が言うには、⎡ 塩縮 Broken Seersucker Gingham Check ⎦だという。
全く想像がつかない訳ではないが、経験を積んだ人間でも完全に理解するのは至難だろう。
翻訳するとこうなる。
平織りのストライプ生地を中性塩の濃厚溶液中に浸し収縮させる。
収縮によって生地表面に凹凸が生じ Seersucker となる。
とまぁ、ここまでは理解できる。
問題は後についているGingham Check だ。
このストライプ生地の裏には、面妖な流水紋のようなハンド・プリントが施されている。
緯方向の流水紋が透けて、経方向のストライプと重なり格子柄を形成する。
結果、ANSNAM流中野式 Gingham Check が産まれるという訳だ。
考えたくもない難解さである。
⎡生地が奇抜なら型は凡庸であれ⎦という常識は持合わせていない。
暑い盛りに着るというのに着脱しにくいプルオーバー仕様になっている。
だが、脱いだり着たりのストレスが思いのほかない。
全体がドロップ・ショルダーのルーズ・フィット・シルェットに仕上がっている事に加えて、
袖だけに通されたキュプラの裏地が 効を奏している。
中野君は裏地の据え方がほんとに巧い。
仕立に於いて、裏地の果たす役割を心得ている数少ないデザイナーのひとりだと思う。
涼しく軽く洗っても皺にならずハリ感を保つ素材。
一方コンパクトな生地感に反して、仕立は圧倒的なボリューム感 で迫る。
ANSNAMの服は、奇抜なようでどこかノスタルジックな風情が漂う。
それはデザインではなく工程上で手法を選択していく術によるのだと思う。
本人にその辺りを告げると。
⎡僕は懐古的な仕事をしているつもりはありませんけど⎦とか可愛げのない答が返ってくる。
まぁ、マニアックで与太な服の世界での話なんだけどね。
ところで、不覚にも僕はこの Marine Parka を買ってしまった。
ANSNAMの夏、これで快適に過ごせるんだろうなぁ?

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