百五十二話 作家は BAR にいる

東海道新幹線が品川駅で停車するようになってから、この界隈はすっかりご無沙汰になっている。
数年ぶりに銀座 に宿を取った。
夜この街を往くと一軒の BAR とひとりの作家を思いだす。
銀座の夜を語る上で外せない “ BAR Lupin ” と直木賞作家の藤本義一先生。
先生は先月大きな功績を残され旅立たれたが、 “ Lupin ” はそのままに在る。
先生とは以前勤めていた会社の上席が知合いだった御縁でお目にかかった。
一九九九年に惜しまれながら幕を閉じた大阪の名門 BAR “ Marco Polo ” だったと記憶している。
稀代の洒落者で、文壇にあっては ⎡ 東の井上ひさし、西の藤本義一 ⎦と謳われ、その名は轟いていた。
時代を築いた作家がカウンターに向合っておられる。
当時、先生は五十歳のなかばを越えられる頃で、僕は三十歳手前だったと思う。
何者でもない馬鹿な若造相手に、品のある大阪弁で静かにいろんな話を語り聞かせて下さった。
その話の中に “ BAR Lupin ” は登場する。
⎡ BAR は酒を飲むだけの場所とちゃうからねぇ⎦
⎡男にとっては塾みたいなもんや⎦
⎡学校とは違て塾やよ⎦
⎡別に通わんでもどうちゅう事ないんやけど、通た方が上等に生きられるわなぁ⎦
⎡銀座に “ Lupin ” というBAR があるんやけど、そっからでも始めてみたらええんとちゃうかなぁ⎦
⎡まぁ、運と努力次第で自分の居場所が見つかるかもしれへんよ⎦
せっかくのご教授にもかかわらず、
生来の酒の弱さと無精が手伝って、その頃の先生の歳に近づいた今でも居場所は定まっていないが。
その時は “ Lupin ”に足を向けてみた。
当時も今もというよりは昭和三年から銀座五丁目の路地に在る。
数度扉を開けただけの未熟者が、名門 BAR のあれこれを語るのは店にもご常連の方々にも失礼だ。
なので通り一遍の話にさせて戴く。
路地に面した扉を開け、階段を降りると銀座の華やいだ空気とは違う古色哀愁めいた世界に至る。
野球のバット等にも使われるヤチダモ製のカウンターは真っすぐ伸び奥で右に折れる。
飴色に輝いてL字を描くカウンターが背にした壁にはモノクロームの写真が飾られている。
織田作之助、坂口安吾、太宰治の ⎡ 無頼派三人衆 ⎦ が写っている。
“ Lupin ” を溜り場とした三人衆を撮ったのは写真家 林忠彦。
昭和を代表する写真家もまた “ Lupin ” の客だった。
この写真は、文士の肖像を数多く撮った林作品の中でも代表作として広く知られている。
三人衆以外にも多くの文士が常連として名を連ねていた。
永井荷風、直木三十五、泉鏡花、菊池寛、川端康成、大佛次郎、林芙美子などときりがない。
昭和という時代の日本文壇が此処 “ Lupin ” に在ったと言っても過ぎる事はないだろう。
注文した酒の味については、云々出来るほどに通じている訳ではないので止めておく。
それより注文の杯が銅製のマグカップに注がれてきた事が不思議と印象に残っている。
銀座の名門 BAR なんだから高級カットグラスでなければじゃないんだ。
刻んだ歴史を盾にして、過ぎた緊張を強いるという無粋さが “ Lupin ” にはない。
だから先生は、BAR “ Lupin ” から始めてはどうかとおっしゃられたのではないかと思う。
些細な事にまで気を配られる方だった。
僕は、先生のご自宅前を十年間通って通学した。
その西宮に在るご自宅も先の阪神淡路大震災に見舞われた。
先生は、すぐさま震災遺児の支援に立上がられ厚生施設 ⎡ 浜風の家 ⎦ の理事長として尽力される。
その活動は、晩年病の床にあられても続けられたと聞く。
目立たず、静かに、品良く、親身に、最期のその時まで尽くされたとも聞く。
厳しい境遇にある人達への寄り添い方はどこまでもやさしい。
⎡ がんばれ ⎦ は自分に言う言葉であっても他人に言う言葉ではない。
先生の言葉だ。
今では “ ダンディズム ” なんて死語なんだろうけれど。
藤本義一 という方は ⎡ 昭和のダンディズム ⎦ をその身に纏った最期の作家だったんじゃないかなぁ。
二〇一二年十月三十日、関西人が愛して誇った洒落者の文豪は逝かれた。
今も静かにグラスを傾けておられるのだろう。
作家は BAR にいる。
天国に在るどこかの BAR に。
⎡ 先生と呼ばれるのは嫌いだ ⎦ と言っておられましたが他に思いあたらないので失礼いたします。
先生、その節はありがとうございました。
そして、心よりご冥福をお祈り申し上げます。

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