二百二十八話 花街の路地裏食堂

前回からの続きです。
色気から食気へと、神楽坂の夜は更けていく。
神楽坂は、坂に沿って各国各種の料理屋が軒を連ねる水商売の激戦区だ。
膝が抜けるほどの敷居の高い料亭から、立ち飲み屋まで、格式や料金もピンキリで犇めいている。
多くを見知っている訳ではないが、気に入って通う店屋が数軒あるにはある。
和食なら “ 神楽坂 けん ” とか、甘味処なら “ 紀の善 ” とか、BAR なら “ 神蔵 ” とかいう具合なのだが。
しかし、欠かせない一軒となれば、やっぱり此処に足が向く。
“ Le Clos Montmartre ”
今時、日本で仏人が営む仏飯屋なんぞ珍しくもない。
こういった店屋に、ありがちな勘違いが、ふたつほどあるように思う。
ひとつは、徹底的に仏であることを売りにする店屋。
黒髪の平べったい顔をした給仕人が、⎡ Oui Monsieur ! ⎦ とか返事したりなんかする。
あんたも日本人だし、俺も日本人だし、何処にも仏人いねぇじゃん、それに此処日本だから。
いまひとつは、無理矢理でも日仏融合を図ろうとする店屋。
“ 禅 ” の一文字が描かれた掛軸の前で、フォアグラ喰えって言われてもみたいな。
どっちも間違えてんじゃん。
まぁ、亭主が好きでやってんだから、それはそれで良いんだけど。
“ Le Clos Montmartre ” は、このどちらでもない。
そもそも、亭主の Jarnick Durand さんは、料理人ではない。
美食の宿として、その名を世界に知らしめたホテル・オークラ。
仏料理部門を総料理長として率いたのは、西欧料理の巨人と謳われた小野正吉だった。
その小野正吉が、渾身の力を注いで育てあげたレストランが La Belle Epoque 。
日本仏料理界の総本山とも言えるこの店に、一九九一年ソムリエとして仏から招聘された男がいた。
すでに仏でも名を知られていたソムリエ Durand 氏で、以降、八年間 ホテル・オークラに務める。
そうして、一九九八年自身の店として開いたのが 、“ Le Clos Montmartre ” 。
この小さな食堂には、仏人経営だからという気取った演出は何もない。
背負ってきた輝かしい経歴を伺わせる重さも一切感じさせない。
故郷に似た路地裏で、故郷の料理と酒を、故郷でやっていたのと同じように振舞う。
ただそれだけ。
ワインに対する姿勢も自然体で、Durand 氏によると。
値の高い酒は旨い、安い酒は旨くない。
安くも高くもない酒は値打ち以上に旨かったり、とんでもなく不味かったりする。
そこを、見極めて供するのが Professional Sommelier の仕事なのだそうだ。
客の懐具合も考えず、糞高いワインを抜くのが仕事だと心得てる北新地のバーに聞かせてやりたい。
狼男みたいな風貌の Durand 氏と、海坊主みたいな風貌の仏男、そして小柄な日本人女性。
“ Le Clos Montmartre ” の給仕は、この三人で切盛りされている。
クスクスを敷いた上に載せられた仔羊のパテ。
人参のグラッセが添えられたホウレン草のグリーン・リゾット。
リードヴォーと腎臓のフリカッセ。
鴨のコンフィ。
どれも、巴里のビストロで、よく品書きに載っている定番料理で目新しくはない。
だけど、ここならではと思わせるのが “ Le Clos Montmartre ” の不思議で、また訪れてしまう。
最後の鴨のコンフィになった時、それまで飲んでいたブルゴーニュ産のワインを替えろと言われた。
⎡えっ、なんで?⎦
⎡コンフィには、フルーティ過ぎるよ、だから⎦
⎡ふ〜ん、よくわかんないけど、っていうか端からわかってないんだけど⎦
⎡そういうもんなら、そうするわ⎦
何処産で、誰が仕込んだ酒かは知らないし、訊きもしなかったけど、取り敢えず注いで貰う。
さっきより色が濃くて、ちょっと癖が強くて、重めの赤ワイン。
言われてみれば、コンフィの塩気に負けずに合っているような。
僕のワインの知識なんてその程度だし、頑張って深めようという気もさらさらに無い。
知らないんだったら、知ってる奴に訊けば済むという主義だから。
喰い終わって。
⎡煙草吸いながら、珈琲飲みたいから外に持ってきてくれる?⎦
海坊主が、珈琲とクレームブリュレを運んで来てくれた。
訊くと、海坊主は、巴里の LES HALLES 地区に生まれ育ったらしい。
Forum de Halles に昔在った飯屋の肥えた主人の話や、そこより何処の飯屋の方が旨いとか。
そんな毒にも薬にもならない話も、こうして此処でしていると、なかなかに楽しい。
夏の夜更けに、粋な花街の路地裏食堂で。

やっぱり、 “ Le Clos Montmartre ” での飯は気分良いわぁ。

 

 

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