四百一話 パクってなにが悪い!

Designer と名乗るのになにか特別な資格を修得する必要はない。
明日から Designer になりたければ、自分でそう言えば良いだけである。
他の分野については断言出来ないが、Graphic や服飾の世界ではそうなっているはずだ。
所詮その程度の肩書きなんだろう。
それなのに、昨今の五輪エンブレムの騒動を側から眺めていると。
Designer には、それが漠然とした規範や良識であっても逸脱行為は一切許されていないらしい。
法的に許容範囲であっても駄目なものは駄目という訳である。
Designer なんだから。
世間のひとは Designer という肩書きに一体なにを期待しているのだろうか?
過去に創作されたなにものにも類似しない完全なる独創性をもった作品。
そんなものは、望んでもまず存在しないんじゃないかなぁ。
もし仮にあったとしたら、よほど不勉強な奴が創った碌でもない駄作だろう。
Designer は、創ることよりも見ることに多くの時間を費やすべきだと思っている。
実際、仕事上膨大な量の作品に触れて過ごす。
その過程に於いて、なにものにも影響を受けずにいることは不可能である。
佐野研二郎氏は、そこを掘下げて表明することに腰が引けたのかもしれない。
だとしたら、その一点でしくじったことになる。
そして、言ってはならないことを言った。
「私はデザイナーとして、ものをパクるということをしたことは一切ありません」
そんな Designer は、古今東西、過去にも現在にも存在しない。
加えて、亀倉雄策先生の名を挙げるんじゃなくて、堂々と別の巨匠の名を告げるべきだった。
“ Jan Tschichold ”
この独モダン・デザインの父が産んだ名作が、すべての始まりでしょ?
なら。
「Jan Tschichichold の名作から着想し、独自の展開案を以って発展させ今回の作品を仕上げました」
「 逆に、訴えている Olivier Debie 氏の作品と Jan Tschichold 作品との関係性をお尋ねしたい、以上」
で、良かったんじゃないの?
デザイナーは、パクってなんぼの稼業である。
パクった経緯を堂々と市場に提示し、かつ時代の空気感を的確に捉え反映させ作品とする。
そして、なにより大切なことがある。
なにをパクったとしても、
誰の目にもそれがその Designer の手によるものだと分からせる力量が備わっているかどうかだろう。
佐野研二郎さんにそういう機会がまたあるのかどうかは知らないが。
次回の会見時には、是非ここんちの服をお召しになられて登場いただきものである。
勉強のためにも。

King’s Road 四三◯番地 あの頃が蘇る OVER THE STRIPES !

 

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