百十八話 おとこの初夜

江の電の由比ケ浜駅を降りてしっとりとした住宅街を抜けて行く。
鎌倉文学館に向かって歩くと少しばかり広い道にあたる。
三一一号線は線路の北側に沿うように通されている。
西に向かえば長谷、東に向かえば和田塚とそれぞれの駅が先にある。
文学館入口と記された交差点の山側左角に小さな鮨屋が佇む。
このうえなく簡素でモノクロームな外観に涼しげに揺れる麻暖簾。
暖簾には⎡かまくら 小花すし⎦と控えめに目立たぬように染められてあった。
暖簾をくぐる。
三寸を越える立派な檜の付け台は白く磨き上げられていて、壁には葦が張られている。
奥には小上がりがあって六畳ほどの小さな座敷が設えられている。
凛とした空気が漂うが、銀座辺りの冷えた感じとは違ってどこか暖かで親しみやすい。
つけ場にはご亭主の三倉健次さんと息子さんが立たれている。
一見の身で大将の前はさすがに失礼なので息子さん近くに外させてもらう。
⎡つけ台で無粋なんですけどちらし寿司をお願いしても構いませんか?⎦
言い訳になるが。
ひとつには、“小花すし”のちらし寿司は滅法旨いと聞いていたから。
もうひとつは、西と東とではネタの種類が違い呼名も違う場合がある。
ネタ箱を見ただけで何と言える自信もないし、実際見かけないネタが覗いている。
地魚は、おまかせかちらし寿司で勉強させてもらう方が互いに手間が省けて良いと思う。
昼時でもあったしね。
大将がネタを捌いて盛り、息子さんが寿司飯を整える。
品のあるゆったりとした丁重な動きで仕立ていかれる。
⎡お待たせいたしました⎦
女将の秀子さんが汁を添えて運んでこられた。
あまり見かけない塗桶のちらし寿司だ。
小振りの寿司桶が上下二段に重ねられており蓋がされている。
上段にネタが下段に寿司飯がそれぞれに分かれて盛られてある。
見た目にも美しい。
⎡ふ〜ん、これ旨いわぁ⎦
⎡えっ、もう喰ってんのぉ?⎦
珍しいこともあるもんだ。
嫁はずっと港近くに育ったせいか鮮魚にはうるさい。
なかなか旨いとは言わないし、臭いを嗅いで顔をしかめたりもする。
⎡ これ何ですか?⎦息子さんに訊いている。
⎡生しらすですよ、この時期だけなんで少しお出ししました⎦
これが生しらすか、臭みもないし独特の磯の香りがする旬の地物だ。
⎡鮮度が命なんでいつでもという訳にはいかないんですけどね⎦
ここ ⎡かまくら 小花すし⎦は、互いに苦悩を抱えた作家と女優にとって大切な場所だった。
最後の無頼派作家といわれる伊集院静先生と昭和の銀幕に咲いた名花夏目雅子さんである。
もう一組おられた常連さんが帰られて客が我々夫婦だけになったので少し話をさせていただいた。
話は、近づく台風から先生と夏目さんへと進んだ。
ご夫婦ともああでしたこうでしたと自らすすんで話される風でもない。
かといって、拒まれているわけでもなく不思議な間合いで話をされる。
この方達は心底先生と夏目さんとのことを大切にされていて、今でも先生の身を案じておられる。
一見の客が通りすがりに立入る話題ではない。
そう思った。
かつて男と女が出逢って一軒の鮨屋で将来を語って喧嘩をして悩んで結ばれた。
そうして、その鮨屋の亭主と女将さんが媒酌人を務められた。
ただそれだけの話で良いんじゃないか。
秀子さんが言われた。
⎡先生の書かれたものをご覧になりますか?⎦
エッセイだったが表題に⎡男の初夜⎦とある。
⎡この座敷で俺も書くとか言って一気に書かれたんですけど、ちょっとタイトルがねぇ⎦
内容は父子がある晩に過ごした鮨屋での話だったが、⎡男の初夜⎦とは先生らしい。
先生の文字は、無頼派作家と呼ばれるに反して繊細で丁重でなによりやさしい。
暖簾に綴られた⎡かまくら 小花すし⎦もそうだ。
最後になったが、作家の妻としての夏目雅子さんについて。
二十七年という短い生涯にいくつかの俳句を詠まれている。
あまり知られていないと思うけど。
その才は夫である先生に引けをとらないんじゃないかなぁ。
棋士が碁石を盤に置くような先生の慎重さとはまた違って。
海童という俳号で詠まれた句は、奔放で情熱的で真っすぐに人の心を打つ。
ひどく辛い時に詠まれたのではと思う破調の一句。
時雨てよ足元が歪むほどに 海童

カテゴリー:   パーマリンク