百六十二話 蘇った雑煮

今日から仕事初めという方も多いと思いますが、雑煮の話です。
学生時代、正月に嫁の実家である海辺の家を訪れた。
塗椀が目の前に置かれる。
時節柄当然雑煮だろう。
蓋を開ける。
真っ黒で何も入っていない。
いや正確に言えば、黒塗椀の底に真っ黒な代物が盛上がっていて上に鰹の削り節が散らされている。
汁らしきものは見当たらない。
椀の底にある闇を覗くような感じだ。
彼女の両親の手前もあって、小声で嫁に尋ねた。
⎡これ何?⎦
⎡雑煮だよ⎦
⎡マジでぇ?これがあんたんちの雑煮なのぉ?⎦
⎡なんかちょっと不気味なんだけど、この雑煮⎦
⎡食べてみぃ、美味しいから⎦
世に奇習というものがあるのは承知していたが、これほどに正月にふさわしからぬ喰物もない。
烏賊墨パスタが明るく見えるほどに闇深い。
どんな味も連想させないただ黒いだけの雑煮。
恐る恐る口にする。
海苔の香りと酒の香りが鼻孔に広がる。
恐ろしく簡素な代物だが、磯が香ってくるような絶妙な味わいがある。
同時に闇の正体も明らかになった。
まず茹でた餅を椀の底に敷く、その上を酒で溶いた海苔と少量の出汁で覆う。
ただそれだけ。
闇の正体は海苔だった。
不思議な喰物だが なかなかに奥深く旨い。
この雑煮は、島根県西沿岸部の限られた土地で食されるものらしい。
浜田の旧家で産まれ育った義理の母にとっては、故郷の大切な味ということになる。
その肝心の母が、この雑煮の味は幼い頃慣れ親しんだ味とは異なると言った。
ずっとそう言い続けて三十年近く経った頃、大病を患い入院して手術を受けることになる。
退院した年の暮れ、ふと母が訴える雑煮の味の違いが何なのかを探ってみたくなった。
母が言うにはそもそも海苔が違うらしい。
⎡岩海苔か?⎦と尋ねると⎡ちょっと違う⎦と言う。
なにやら塵屑みたいな海苔だったということだけしか母の記憶には無い。
方々手を尽くしたが “ 塵屑みたいな ” だけではどうしようもない。
諦めかけた時、東京の女性が投稿していた blog にあった一文が目に止まった。
⎡島根の友人から塵屑のようなものが送られてきて扱いに困っています⎦
⎡何にするものかわからず、処分しようかと思ったけど桐箱に入っていて高価そうなので……………。⎦
中身の黒い塵屑みたいなものと桐箱の写真が載せられていた。
⎡十六島海苔 ⎦と蓋の表書きにある。
⎡こいつだぁ、こいつに違いない⎦
調べると “ ウップルイノリ ” と読むそうだ。
十六島は島根半島の先に在る集落の名であり、その磯で採れる岩海苔の一種が⎡十六島海苔⎦ とある。
海苔の歴史は古く⎡出雲国風土記⎦に記されおり、出自は千三百年前にもさかのぼる。
奈良・平安時代より健康を祈願して朝廷に献上されてきた最高級の岩海苔とされる。
きめが細かく、香りが上品で、紫色がかった艶のある黒味が特徴。
ただ、日本海の高波と滑り易い岩場での採取は非常に危険で生産者も十九軒に限られている。
年明けから二月までの極寒の中、シマゴと呼ばれる女達が指先に巻き付けるようにして採っていく。
収穫高は、恵まれた年でも海水を含んだ状態で一トンにとどかない。
乾燥させると畳数畳分にしかならず、さらに県外流通となるとその一割程度という希少さである。
毎年同じ人が予約注文し、収穫高によっては常連が優先し新規客にはいき渡らない年もあるという。
相場価格で年度の収穫量によってかなり変動すると聞かされる。
ようやくのことで送ってくれるという出雲の店屋を見つけだし、謎の海苔を手に入れた。
厚み大きさ共に葉書くらいの海苔が千五百円というその値段にはさすがに驚かされたが。
ここまで労したのだから何事にも徹底したくなる。
出雲杜氏が育んだ銘酒 “ 李白 ” と奥出雲仁多の杵つき餅も取寄せた。
⎡十六島海苔⎦を⎡李白⎦で溶き伝えられたとおりの出汁をひき、茹でた⎡仁多餅⎦を覆う。
最後にカンナ刃で削った鰹節を添える。
こうして故郷を離れて六十数年口にすることがなかったという母の前に “ 本物の雑煮 ” は蘇った。
口へと運んだ母が嬉しそうに言った。
⎡これこれ、この味こそが伝来の雑煮よ⎦
⎡もう諦めていたけど、ほんとに長生きはしてみるもんね⎦
そして、今年も漆黒の “ 雑煮 ” から一年の食が始まる。

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