百六十九話 刺繍屋

⎡オイ、刺繍ひとつ仕上げんのにいつまでかかってんだよぉ?⎦
年明けに指示した刺繍見本が一向に上がってこない。
通常なら十日もあれば充分だろう。
生地屋に任せたのが間違いだったのか?
しかし、数々の著名デザイナーのコレクションを担ってきた玄人中の玄人のはずだが。
⎡ですよねぇ〜⎦
⎡ですよねぇ〜じゃぁねぇだろうがよぉ!⎦
⎡いやそれが、図案どおりにならないって何回もやり直してるらしいですよ⎦
⎡あたりまえだろうがぁ!印刷じゃねぇんだからそのとおりなんて無理に決まってんだろう!⎦
⎡適当に感じがでるようにやりゃぁ良いんだよ⎦
⎡う〜ん、言ってんですけど何んか納得いかないようで………………。⎦
⎡刺繍屋が納得するまで動けねぇなんて馬鹿な話があるかぁ!⎦
⎡そいつ何処に住んでんだよ?⎦
⎡東住吉ですけどぉ、行かれますぅ?⎦
⎡ったく、なんとかしろよぉ⎦
そんなこんなで一ヵ月を過ぎようかという頃合いで仕上がってきた。
全長三十五ミリほどの刺繍見本である。
⎡えっ、これ刺繍?⎦
⎡ねっ、凄いでしょ⎦
⎡うん、ここまで再現できるもんなんだぁ⎦
⎡この運針いったいどれくらいかかってんだろう?⎦
⎡さぁ〜、でもこりゃ相当高いでしょうねぇ〜⎦
⎡はぁ?それ訊かずにやったの?⎦
⎡いちいちウルサイ人だから気をつけてやった方が良いとだけは忠告しときましたけど⎦
⎡他は気にすることないとも言ったかなぁ⎦
⎡あんた、なんか俺に恨みでもあんの?⎦
⎡まぁ、無いと言えば嘘に………………⎦
たかがポロシャツの胸を飾る刺繍如きと思われるかもしれないが、意外と重要なんです。
立体裁断でシルエットを整えて、
度詰めしてシルケット加工さらには縮絨するという手間を素材にかけたとしても。
この三〇ミリほどの刺繍が半端なものであれば全て台無しとなる。
その事を一番よく理解していたのはこの刺繍屋かも。
ど〜もスイマセン。
暴言撤回しますから、ご請求お手柔らかにお願いします。

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