六百四十六話 湾岸の下町に本気の boulangerie を

海辺の家から車で一〇分ほど東に “ 和田岬 ” という湾岸の街がある。
すぐそこなんだけど、便が悪い辺鄙な場所。
噂では、こんな場所に超絶に旨いパン屋があるらしい。
とりあえず、嫁とあるという笠松商店街を目指して行ってみた。
商店街って、いつの噺?
ほとんどのシャッターが下りていて、ただの下町の路地にしか見えない。
車を停めて歩いていると、横を若い夫婦が駆けて通り過ぎていく。
その先に、人集りが。
「あそこじゃないの?」
「嘘だろ?なんでこんなとこでパン屋始めたんだろう?」
小さな看板が立ててある。

“ boulangerie maison murata ” たしかに此処みたいだ。
嫁に。
「この店屋、多分そうとうに 旨いよ、俺鼻が利くから」
店先まで、なんともいえない 甘く香ばしい匂いが漂う。
店内の棚には、およそ考えつく限りのいろんな種類のパンが所狭しと積まれている。
本格的な PAIN DE CAMPAGNE から餡パン、果ては メロンパンまでが並ぶ。
「凄ぇなぁ!どれも滅茶苦茶旨そうだわ」
地元の子供が喜びそうなモノまであって、気取り無い品揃えの構えが良い。
添加物を使わず、天然酵母から生まれる夥しい数のパン。
居並ぶ客も多いが、こなす職人の数もちいさな店にしては一五人ほどいる。
その一五人が、ほぼ無言で無駄なく素早く交差していく。
たいした店屋だと想う。
店主は、村田圭吾さん。
お若いが、その職歴は華やかだ。
一五歳からキャリアをスタート。
仏流パン食文化を神戸に広めた故 Phillippe Bigot 氏の元で、製パン技術を学び渡仏。
巴里九区の名店 Maison Landemaine で職人として働く。
数年後、職人の指導を任されるまでになる。
帰国し下町で地元住人を相手に本気の boulangerie をとこの地で開業。
このひとは、人としても職人としても変わっている。
製パンは recipe と科学に尽きる、我慢や苦労は何の意味も為さない。
なにより効率を重視し、製パン業がしんどい稼業ではないようにすべき。
腕ではなく、脳を使え。
なんてことを、周りに吹聴している。
maison murata の基本調理法は、「高水和・高分解」なんだそうだ。
水分を多めに冷蔵庫で時間をかけて発酵させる。
そして、調整点を見極めることで伸縮性の高いもっちりした生地に仕上がる。
素人には、なんの興味も湧かないが、これが、自らを発酵職人と名乗る所以らしい。
よく解せない話はともかく、後に待つひとを気にしつつあれこれ選んで会計へ。

海辺の家に戻って、さぁ、食うぞぉ。
普通であって、それでいて確かに旨い。
ハード系にもデニッシュ系にもそれぞれに違った風味と食感が工夫されている。
一度食べただけだが、これだと食べ飽きないだろう。
正直、今まで食べてきたパンと比べて、常食とするならこれが一番口に合うかもしれない。
日本の食文化と仏の食文化には、大きな隔たりがある。
それを承知で、朝昼晩通して毎日の食卓にパンをと考えた時、これならと思えるパン。
maison murata のパンは、そんなパンだ。
何故、この街で?
食べてみて、その答えが少し分かったような気がする。
店主 村田圭吾さんの口上。

みなさまの暮らしが、当店のパンがあることで、より豊かなものになれば幸いです。

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