六百二十七話 ひとり神戸

気温三〇度、湿度九二%、曇天の港街をひとりでぶらつく。
まずは、腹ごしらえ。
南京町の路地裏にある “ 横丁 ” で鰻重でも喰うかぁ。
義父も通った一九四七年創業の老舗。
この店屋の段取は、注文を受けてから焼くのではなく、ある程度の量を予め焼いておく。
なので、焼き立てを望むなら口開けの今どきが狙いだ。
鰻重の大盛りを注文して待つ。
暖簾を潜って飴色に燻んだ店内に居ると、此処が中華街だということを忘れてしまう。
柔らかくとろけるような江戸前ではなく、身が締まって少し歯応えが残る鰻だがこれはこれで旨い。
喰い終わって、改めて今日はひとりだと気づく。
誰にうるさく言われることもなく、気兼ねすることもなく、言い訳する必要すらない。
食べたいものを食べたいだけ食べれるという好日なのだ。
ならば〆に蕎麦でも。
北長狭通をあがって、“ 道玄 ” に向かう。
美人の女蕎麦職人が打つ唯一無二の九一蕎麦。
たいした距離でもないのに、歩き着いた頃には汗びっしょり。
嫌な季節だ。
すっきりするには、酢橘の酸味か?おろし大根の苦味か?迷った挙句苦味に傾く。
辛汁の濃さ、鬼おろしの具合、削節の香り、すべてにおいて絶妙。
このモデルみたいな女亭主の蕎麦切りの腕前には、幾度食べても魅せられる。
また客筋も一筋縄ではいかない。
隣席の若い女性客が、小説を片手に注文する。
「二、三杯飲んでからにしたいんで、蕎麦の注文は後にしていただけますか」
平日の真っ昼間から?二、三杯?思わず顔を向けてしまう。
手にしている小説は、村上春樹先生の “騎士団長殺し”
不健全で難解な小説を読みながら削節を肴に日本酒を冷で呷るという趣向らしい。
涼しい顔をしながら、なかなかにドス黒い日常を過ごしているおねえさんを横目に蕎麦を啜る。
こうして、鰻に蕎麦と好物を渡り歩いて、腹も満たされ珈琲もいらない。
せっかく街中に出てきたんだから、無駄遣いがてら店屋を冷やかしにいこうかと思う。
しかし、汗で濡れた身体では試着も出来ないので服屋はやめておく。
TOA ROAD をくだって、高架を超えて三ノ宮町辺りへ。
震災前は、天麩羅や鉄板焼きの名店が路地に立並ぶ飲屋街だったけど変わってしまった。
今では、馴染みの店屋もなく、流行りの服屋や雑貨屋ばかりで往きかうひとも洒落ている。
稼業が稼業だっただけにこちらは臆することはないが、場違いと言えば場違いな界隈だ。
興味あるものもなく、客の入り具合を眺めながら歩いていると一軒の店屋が目に留まった。
明らかに Hand Made frame の眼鏡が並んでいるちいさな眼鏡店。
「ちょっと冷やかしても良いかな?」
「どうぞ、ごゆっくり」
「今日は、お買物ですか?」
「いや、腹ごなしにちょっと」
「なに召し上がられたんですか?」
「鰻屋と蕎麦屋かな」
「えっ?昼飯梯子ですか?あぁ、お身体おおきいですもんねぇ」
「うん、ちょっとだけ肥えてるからって、うるせぇよ!」
にしても、この acetate frame 無骨だが丁寧に創られていて、よく出来ている。
「掛けさせてもらうよ」
厚みの割に圧迫感は感じられない。
「お客さまでしたら、鼻部分少し削って眉毛と眼球の間に rim の上部を揃えた方がいいですねぇ」
「一体型の cell frame で、そんなこと出来んの?」
「うちは、一点一点手創りの BESPORK 工房なんで問題無くお創りします」
「BESPORK 工房って、今更だけど此処なんて言う名前の店?」
「眼鏡舎 “ ストライク ” です」
「あぁ、北野ハンター坂の眼鏡を置いていない眼鏡屋って、おたくだったの」
「えぇ、あちらは注文製作専門で、こちらは二ヵ月前から始めた半既製品の眼鏡屋なんです」
「ところでお客様って、Vintage frame collector なんですか?」
「そうならないように気はつけてるつもりなんだけどね」
「 まぁ、いいや、これ買って帰るから、フィッティングしてもらえる」
「マジですかぁ!僕、通りすがりに名前も知らなかった眼鏡屋で眼鏡買うひと初めて出逢いました」
「いや、今日、俺、何しても許される日だから」
「そうなんですね、ありがとうございます」
食いたいもの食って、買いたいもの買って、無目的で生産性の欠片もない1日だったけれど。

けっこう楽しかった。

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