四百七十一話 老香港

もう三〇年近く前の話になるけど。
香港をよく訪れていたことがある。
欧州へと向かう途中だったり、中国への入国手続きのためだったりで。
香港というその地に特段の仕事があった訳ではない。
なので長く留まることはなかったが、なんとなくこの港街が好きだった。
三〇年前だから、返還以前の英国統治下にあった香港ということになる。
実際には、東莞あたりで採れた香木の集積地であった湾という由来らしいが。
港が香るというその名にも、なんとなく情緒が潜んでいそうで惹かれる。
中環駅のほど近く士丹利街に香港で最も古い茶館があった。
今でも大戦前夜に創業されたこの茶館は営まれているが。
噂では、近年改装され訪れた当時の面影はもう失われてしまったらしい。
「陸羽茶室」 
開閉を重ねて褪せた大きな扉を白装束にターバン姿の印度人が開けてくれる。
植民地時代そうであったような名残の儀礼で迎え入れられ、客で埋めつくされた喧騒の店内へ。
そこには、もう写真で見るしかかなわないと思っていた古き良き老香港の姿がそのままに在った。
誰にとっての良き時代だったかは別にしても。
こうして、過ぎ去りし時代が実像として眼前にあることに圧倒される。
茶館なので、大抵が昼時の飲茶目当てで出掛ける。
何を食っても高級茶館の名に恥じない品の良い旨さで、もう晩飯は汁も入らないほどに堪能した。
そんなことを懐かしく思い出していたら、無性に香港流広東点心が食いたくなったなぁ。
神戸元町に老香港を掲げた飯屋が在る。
「香港茶楼」
先日 、長く香港に駐在していた友人に連れられて行ったばかりの中華飯屋だ。
地元では名の通った老舗なので、知ってはいたが訪れたのはその時が初めてだった。
すっかり髪の毛がなくなって、もはや誰かもよくわからなくなった香港通の友人が。
「 なぁ、ここの点心旨いやろ?」
「確かに旨い、旨いんやけど、おまえ、ずっと焼豚と胡瓜食いながら紹興酒煽ってるだけやなぁ」
「まだ昼の一時やぞ、そんな昭和な飲み方してるから禿げんのとちゃうんか?」
「知らんけど、のうなったもんを追いかけてもしょうがない」
「のうなったって、毛根のことか?」
「 まぁ、それも含めていろいろとや、そんなことより此処の焼豚は神戸一とちゃうかなぁ」
「俺は、並びに在る新生公司が一番やと思うけどなぁ」
「これやから素人は困る、あれは邦人向けの味や、ほんまもんの華人好みとは匂いも風味もちゃう」
「って、おまえ生粋の日本人やろ、禿げてから華人に宗旨替えか?」
たしかに、香港茶楼の焼豚は、八角が香りあっさりと仕上げられている。
そして、香港茶楼もまた懐古的な造りとなっていて、ちょっとした老香港気分にも浸れる。
年の瀬に。

香港の夜景ならぬ神戸ルミナリエに手を合わせ、香港茶楼で点心でも食って帰るとするかぁ。

 

 

 

 

 

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