九十九話 目黒のさんま

東京急行電鉄東横線の学芸大学駅。
駅開設当時は、碑文谷という名だった。
その後は青山師範、第一師範と呼名を変えて、今の学芸大学となる。
かつて、この地に在った東京学芸大学の変遷が、そのまま駅名に繋がってきた。
次の仕事までの合間に少しぶらつく。
昼飯時だったので、Vlas Blomme の吉田君に薦められた店へ腹ごしらえに向かう。
吉田君は、どっから見ても良い人で、実際やさしい。
がっつりした体格をしていて立派な飯喰いにも見える。
こういう人に飯屋の良し悪しを訊ねると、大概間違いはない。
⎡僕のとっておきの店屋を御紹介します⎦間髪入れずに即答。
駅前商店街の中程近くに在った。
屋号を⎡ビーフ亭⎦と云う。
なるほど、大食漢の食欲を直撃しそうな分かりやすく明快な屋号だ。
今どきの、何屋か分からない気取った店名よりずっと良い。
⎡ハンバーグ定食をお願いします⎦
ジュウジュウ音を立てながら鉄板にのったハンバーグがやって来た。
同時に、丼鉢から八センチほど盛上がった白飯が置かれる。
そして、籠に盛られた六個の生卵もついて来る。
飯の大盛りはまだしも、生卵六個盛りは初めて経験する。
⎡おかわりできますから⎦
この飯や卵をおかわりする人がいるとは到底思えないが。
そういや、吉田君はしそうだけど。
味は申分無いですよ。
自家製デミグラス・ソースも丁寧だし、肉質もかなり上質だ。
失礼ながらこんな値段で大丈夫なのかと思う。
訊けば夜のステーキ店が主で、昼定食は週に二日か三日の営業らしい。
良心の塊みたいな下町の洋食屋さんである。
それにしてもこの商店街、活気があるっていうか賑やかだなぁ。
年老いた店主の老舗もあれば、若い店主の洒落た店もある。
商店街愛好家の僕から言わせれば、理想的な形態である。
面白い看板に出逢う。
⎡世界一美味しい生サラミ⎦
一度試したかった佐渡の小さな食肉加工工房⎡へんじんもっこ⎦の生サラミ。
独逸の食肉加工Geselle(職人)の称号を持ち、数々の世界コンクールで受賞を重ねている。
⎡何でこんな処に?⎦と思いながら店に入る。
⎡なんだぁ、この店?⎦笑ってしまった。
どんだけマニアックなんだ。
能登の醤油から、南仏を始め欧州の片田舎の特産食材までが処狭しと置かれている。
⎡これって Figlog じゃないのぉ?⎦
⎡こんなものイタリアから輸入されてんですか?⎦若い変わり者そうな店主に訊ねる。
⎡いやうちの自家製なんですよ、珍しいでしょ⎦
珍し過ぎるだろう?
日本で“ Figlog ”なんて言っても誰も知らないよ。
フィグログとは、アドレア海沿岸のイタリア中部マルケ州に伝わる伝統食である。
アンコーナで昔喰った事がある。
乾燥イチジクと砕いた胡桃等を一緒に蜂蜜で固めたもので、形状はサラミに似ている。
外見からは一切味の想像がつかない喰いものを、一体誰が買うんだろう。
そこへ、大学生風のオニイチャンがやって来た。
真剣な眼差しを商品に向けている、フィグログにも。
仕送りの金か、バイトで稼いだ金か、なけなしの金で失敗は許されないといった風だ。
あれこれ悩んだ末に、季節限定のフィグログをレジに持って行く。
マジかぁ?
恐るべし学芸大駅前下町商店街。
こちらもオニイチャンに負けじと、フィグログにサラミにソーセージと持てるだけ買いまくった。
⎡Good Fortune Factory⎦の店主が、日本全国、欧州各地を巡って足で集めた珍品名品の食材。
他にも妙な店が在って、この商店街ほんと面白いよなぁ。
ふと、この地を舞台にした噺が浮かんだ。
落語の名跡、三代目三遊亭金馬師匠の十八番⎡目黒のさんま⎦
殿様と下町に生きる庶民の食べものであった下魚⎡さんま⎦をめぐる噺。
詳しくは面倒なので省かせていただくが、世俗に無知な殿様を笑う風刺噺である。
殿様の知らないところで下町の庶民はちゃっかり旨いものを喰って生きている。
今も昔も意外と変わらない。

此処は、そんな噺が残る下町の商店街です。

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