三百二十六話 海辺の家の先々

家屋というものは、生きているのだと思うことがある。
この海辺の家は、家主も家も盛りだった頃、大勢の客人で賑わっていた。
正月ともなれば、ひとが廊下にまで溢れる勢いだった。
僕や嫁が学生だった頃の話で、もうずいぶんと昔の話だが、ついこのあいだの事のようにも想う。
ちょうど一年前、家主が逝ったこの古館を手放さないと決めた時、もうひとつ考えたことがあって。
どうせ手放さないんだったら、昔そうだったようにひとが集う家にしたい。
しかし、齡六十年を越えるこのボロ屋を、当面建替えずにそうすることが自力で適うのだろうか?
壁に、床に、天板に、建具へと。
とにかく、掃除して、修繕して、塗装してを進めていく。
言っておくが、Reform ではない、あくまでも修繕である。
なので、ボロ屋は、ボロ屋のままで、若返りもしていないし、見違えるようにもなりはしない。
だが、そうやって手を入れていくと、不思議なことが起こる。
今までどうやっても動かなかった建具が動いたり、軋んでいた床が音ひとつ立てなくなったり。
修繕の手が届いていない箇所までもが、自己再生するように良くなっていく。
まるで、息をしているかのようにも思える。
「あんたら、建替えるだのなんだの勝手なことをお考えのようでっけど」
「儂、まだまだお役に立てまっせぇ、生来丈夫にできとりまんねやさかい 」
「今時のそこいらにおるペナンペナンの玩具みたいな家とは違いまんねや」
ボロ屋には、ボロ屋の言分があって、そんな声も聴こえてきそうな具合である。
それよりなにより、ここに居ると妙に落着くのだ。
此処に棲むのは週に一日だが、なんだかホッとする。
それは、訪ねてきてくれる人もそうらしい。
そもそもに於いて、他に褒めようもないだろうからそう言うしかないのかもしれないが。
年が明けた初春の寒い日に、画家の女房がやって来て泊まっていった。
この方の審美眼は、屈指の現代美術家だった亭主のそれをも凌ぐほどに鋭い。
気質からだろうか、誰にだろうと、社交辞令は言わない、お世辞も口にしない。
昔から、そういう方だ。
「ほぉ〜、おまえの言うとおりボロいっちゃぁ、確かにボロいなぁ」
「だけど、この空気感は悪くない、それだけに、弄くったり、建替えたりするのは難しいねぇ」
夜中になった頃。
「 ところで、わたし此処でなにやってんだろう?」
「東京時代から、他人を泊めることはあっても、他人の家に泊まることは絶対になかったのに」
「この家のせいかなぁ?」
帰りがけ。
「何をどう弄くろうと、それは住むひとの勝手だろうけど、此処だけは残した方が良いよ」
未だ手つかずの台所で残せと言ったのは、大工が漆喰壁に造り付けた古ぼけた大きな食器棚だった。
亡き義母の指図に大工が応えたもので、確かに指物師とは違う大工ならではの造作かもしれない。
じゃぁ、流行のシステム・キッチンとか駄目じゃん。
まぁ、皆が気兼ねなく来てくれるんだったら、それはそれで良いんだけど。

どうせ、俺、料理しねぇし。

 

 

 

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