六百十六話 ふたつの顔をもつおとこ

海辺の家に泊まっていた鳥取の従姉妹が帰るというので、三宮まで送っていくことにした。
途中、どこかで昼飯でもとなって。
兵庫県庁前の山手通りにポツンと在る薄汚い古屋で営む飯屋に向かう。
雰囲気もあって旨い Thai 料理を食わせるのだが、残念な難点を抱えた飯屋だ。
古木戸を開けると、その難点が奥からやってきた。
「いらっしゃいませ!ご予約のお客様でいらっしゃいますよね!」
「してねぇよ!予約なんて」
「えぇぇっ〜、この大人気店に予約無しで来ちゃったんですかぁ〜」
「うるせぇ!空いてんのはわかってんだぁ!あがるぞぉ」
「じゃぁ、お二階にどうぞ」
ほんと面倒臭い。
「おい、なんかギシギシいってるけど、大丈夫なのかぁ、この階段?」
「大丈夫じゃないです、お気をつけて」
「直してから案内しろよ!」
「お金ないんですぅ!」
鬱陶しい。
二階は、座敷で奥の卓を囲むことにした。
座ると、尻がプルプルと震える。
「なぁ、ちょっとお尻が震えてんだけど」
「あぁ、空調機の上なんでその振動で揺れるんです」
「マッサージ・チェアみたいだねって、修理しろ!」
残念な店屋だ。
品書を眺めていると、また難点がやってきた。
「二〇二三年、令和五年、卯年版、Baan Thai Market 新たな逸品をご紹介いたします」
「えぇっと、どれにしようかなぁ」
「あぁ、今日はこれにしよう!この生春巻です、絶品です」
「あのなぁ、オメェ去年の暮れにも、生春巻きがお勧めとかなんとか言ってなかったかぁ?」
「去年といいますとぉ、虎年ですね、子年からずっと言ってますから」
「どこが卯年版で、なにが新たな逸品なんだぁ!いい加減なことばっか言うんじゃないよ!」
「あっ、なんかあったら、このドラ鳴らしてくださいね、すぐ参りますので」
「ドラなんか鳴らさねぇよ!恥ずかしい!それに鳴らしてやって来るのどうせお前だろ」
まったくもって適当なやつ。
厨房のタイ人も、従業員も、ほんとにちゃんとした真面目な連中なのに、こいつだけがこうなのだ。
生春巻き、鶏とカシュウナッツの炒めもの、パッタイ、パイナップル焼飯などを注文する。

これが、子年から四年間変わらぬ Baan Thai Market の定番生春巻。
ポピアソットと呼ばれ越南生春巻をタイ風にアレンジしたモノだそうだ。
米粉皮のもちっとした食感に加えて、蒸し野菜や春雨といった具の風味も合わさりとても美味しい。
Baan Thai Market の料理は、タイ料理人による本格派なのだが、不思議と日本人の口によく馴染む。
香菜や香辛料も、客の希望に沿って細かく加減して供してくれたりもする。
実のところ、Baan Thai Marke は、至極真っ当な良い飯屋なのである。
このおとこさえいなければ。

ただ、かといってこのおとこのいない Baan Thai Market もどこか物足りない。
まぁ、タイ料理における香菜のような役割を担っているのだと思う。
好きなひとにとっては堪らない好物なのだが、苦手なひとにとっても全く無いとなると寂しい。
さらに、おとこは、もうひとつの隠された顔をもっている。
この “ ヌルピョン ” と呼ばれるおとこ、濵田マリ率いる “ Modern Choki Chokies ” の一員でもある。
ある時は、大阪を代表する Entertainment Band の Vocalist であり Performer 。
ある時は、タイ料理屋の店主であり香菜男。
果たしてその真実はいかに?って。
どっちでもエエわぁ!
食い終わって。
「今日は、おいしかったわ」
「それは、良かった!でも、明日は来ないでください。二日続けて美味しかったことないですから」
「明日は、きっと不味いですよ、気をつけてください」
「本日は、年明け早々にお運びくださってありがとうございましたぁ」
その後、小声で続けやがった。
「この前の来店からだいぶ間が空いてるけど、一応言っとくか」
「こらっ!聞こえてんぞぉ!」

こんなところも含めて、Baan Thai Market は、港町神戸らしい愛すべきふざけた飯屋なのである。

カテゴリー:   パーマリンク