六百五十五話 良いお年を

仏道の決まりで、新年のご挨拶は控えさせていただきます。
皆様、良い年を迎えられますように。

明年もよろしくお願いいたします。                  二〇二四年大晦日

 

 

 

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六百五十四話 異世界ビジネス

Main culture どころか Sub culture にすらなれない。
しかし、いつの時代にもそれは確かに存在する。
Culture の周縁に居座る異彩の領域。
日本美術史の系譜にも、江戸時代?いや、もっともっと昔から隠れるようにして在る。
怪奇美術とも暗闇美術とも言われ受け継がれてきた。
一九八〇年代の業界にも継承者はいた。
「あいつ、上手いのになんであんなひとの身体から膿が出るような絵ばっか描いてんの?」
「気持ち悪いよなぁ、でもあれでどうやって飯食ってんだろう?」
「きっと、ああいうの好きな輩が意外といるんじゃないの」
「でも、あれ、描けって注文されて描けるもんかなぁ?」
「一枚二枚なんとかなっても、ずっとは無理じゃねぇ」
「ところで、あいつ、なんていう名前のやつだった?」
失礼極まりない話だが、だいたいがそんな感じだった。
とはいえ、この異界の扉をまったく開けたことがないという人もまずいないだろう。
一九六〇年代、まだ貸本漫画が流通していた時代に現れたふたりの天才によるところが大きい。
ひとりは、“ 墓場の鬼太郎 ” の水木しげる先生。
もうひとりは、“ 紅蜘蛛 ” “ 蛇少女 ” の楳図かずお先生。
巨匠が描く怪奇漫画は、少年少女を虜にし居所は周縁ながら一躍皆が知るところとなる。
そして今、怪奇美術界で筆をふるう絵師達の多くがこの時代に生まれ多大な影響を受けている。
最初に読んだ漫画が楳図かずおの “ ミイラ先生 ” だったという伊藤潤二もそのひとりだと思う。
先日、伊藤潤二展 “ 誘惑 ” を観に伊丹市立 Museum へ。
あいかわらずだが、氏の描く女性は別嬪だ。
美人とか綺麗な女性とかではない。
明治期に発案された “ 別嬪 ” という言葉の方が作品の風情に似合うような気がする。
格別の美貌が、対極にある醜さを際立たせ恐怖へと誘う。
伊藤氏の真骨頂で館内は満たされ、見事に気持ち悪く怖い。
丸ペン一本で、誰も見たことのない世界を創りだす伊藤潤二の画業。
現実離れした奇抜で幻想的な芸術が Surrealism の定義であるなら、氏の作品はまさにそれだ。
伊藤潤二作品は、国境を超えて世界中で高く評価されている。
その評価を見せつけられたのは、観終わった後の Museum Shop でのことだった。
背中に伊藤作品が刺繍されたスカジャンが掛けられている。
値段は、六万円超え。
6万!高っかぁ〜、誰が買うのこれ?と呆れていたら、後の会話が聞こえた。
「あのスカジャンだけど、僕にはちょっとちいさいです」
嘘だろ?サイズの問題かよ?
「大丈夫ですよ、XL もご用意してますから』
えっ!あんのかぁ!
振り返ると、白人の OTAKU が鏡の前でピンク色のスカジャンを試している。
パッツンパッツンなんだけど、似合ってねぇなぁ、全てにおいて全然似合ってない!
「じゃぁ、これも」
あんた、それ買うのかぁ!
「これも入れて全部で幾らですか?」
「え〜と、でも一〇〇万円もいかなそうよ」
一〇〇万!このレジ係のおばちゃん、悪魔か?展覧会の絵より怖ぇぇわ!
台の上には、伊藤グッズが山のように積まれている。
「おにいさん、どこまで帰るの?三袋以上になるけど持てる?」
「大丈夫、どこも寄らずに京都のホテルへ帰るから」
「それに、さっきのは隣の郵便局から送ったから、それは手持ちで」
おいおい、これって二巡目なのか?一体幾ら使ったんだ?
オメェ、何者なんだよ?転売屋かぁ?
下世話ながらだけど伊藤潤二さん、グッズ販売でもガッツリですよねぇ。
夫婦揃って凄ぇなぁ。
奥様は、妖怪絵師の旗手と謳われる石黒 亜矢子さんだ。
意外と馬鹿にできない異世界ビジネス。

やるもんだ。

 

 

 

 

 

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六百五十三話 邸宅で観る Andrew Wyeth の絵

もし、米国という国家に一片でも善良な心があるのだとしたら。
その心を画業に於いて表現しえた唯一無二の画家だと僕は信じている。
“ Andrew Wyeth ”
一九七四年、初めて目にする Wyeth の絵に受けた衝撃を今でもよく憶えている。
徹底した基礎訓練による圧倒的な技術。
解剖学の領域にまで達する写実的人物像への探究。
当時中学生だったが、こんな絵を描く画家が世界のどこかにいるという事実に驚いた。
自分は十四歳、画家は五七歳。
事と次第によっては、自分も将来一枚なりとも描けるようになるかもしれない。
そうした錯覚から水彩画を始めた。
努力も探究心もなにより才能も到底足らざるまま今だ一筆たりとも描けていない。
画家は生涯を米国北東部の原風景とそこに暮らす人達を描くことにひたすら費やした。
夏場は Maine 州 Rockland 郊外、冬場は Pennsylvania 州 Chadds Ford と居を移しながら。
一九八七年頃、米国出張で初めて両地を訪れた。
建国時代に遡る清教徒的な雰囲気は、画家の青年期から比べると随分薄らいでいたのだと想う。
それでも物質至上主義を謳歌する他の地域にはない禁欲的な空気感が僅かだが確かにあった。
実は、米国という国の始まりは善良な精神に基づいていた。
四〇年近く経った今、そんな与太話を信じる者はもう誰もいない。
今、米国のどこを掘り返してみてもそんな証はどこにもない。
だが、善良な精神の記憶は Wyeth の絵にだけはこうして残されている。
一九四八年 Andrew Wyeth は、現代米国具象絵画の最高傑作とも評される作品を産む。

“ Christina’s World ”
病で歩行困難だった Miss Christina Olson が家に向かって這いながら進む姿を描いている。
この作品は、実際に Wyeth が目にした光景で再現描写だという。
Miss Christina Olson はこの当時五五歳で、この他にもWyeth 作品には多く登場する。
所蔵しているN.Y.近代美術館を含め五度にわたってこの絵を観てきた。
僕は、この作品をある種の宗教画だと想っている。
悲しみや憐れみを一度として感じたことはない。
圧倒的な畏敬の念と力強さが画面を支配していて、いつ観ても勇気づけられる。
障害に見舞われ孤独であったとしても、存在感を失わず強固な意志で前を向いて生きていく。
この奇妙な構図によって強調される距離感は、ひとが生涯歩む道程の長さなのかもしれない。
また、草の一本一本まで丁寧に写した筆跡は、描くというより祈るというに近い。
教訓めいた宗教画では表現されない精神性の本質を現実の対象として描きあげていると思う。
Andrew Wyeth は、つつましくとも力強く生きる障害者、移民、黒人達を多く描いている。
美醜や人種に惑わされず、生き様そのものを真正面から見つめて描いた。
そこにこそ、米国という国家が本来目指すはずだった力の源泉があったような気がする。
三〇年ぶりに Andrew Wyeth 作品を前にしてそんなことを想った。

紅葉真っ盛りの大山崎山荘美術館。

Maine 州の Olson House とは趣きが違うものの旧い邸宅での Wyeth 展は格別でした。

 

 

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六百五十二話 じゃぁ、山の上ホテルで

自分にとってかけがいのないと言ってもよい宿屋が数軒ある。
南仏 ARLES “ Hotel Nord Pinus ” 巴里 Saint-Honore “ Hotel Costes ” 京都 麸屋町 “ 俵屋旅館 ” など。
館に重厚な物語を秘めながら、それでいてどこか素人臭い。
仕事で碌でもない事があっても、帰りつけばホッと一息つけて安らぐ。
宿屋という商いは、難しい稼業だと想う。
やらなくては駄目で、かといってやり過ぎても鬱陶しがられる、塩梅が求められるのだ。
かつて東京出張の際、雨の予報だと予約するホテルがあった。
用を終え、戻ってまた雨の中を飯を食いに出かけたり飲みに行くのも億劫だ。
旨い飯が食えて、落ちつけるBARが在って、ちゃんとした珈琲がいつでも飲める宿屋を探す。
そうした訳で行き当たったのが、お茶の水に在る “ 山の上ホテル ” 。
川端康成、三島由紀夫、池波正太郎、伊集院静など、数多くの文豪が別宅と呼んで愛した稀有な宿。
はじめての宿泊時、部屋に案内してくれたのは、ちょっと緊張気味の若い女性だった。
荷物を置いて、設備の仕様を伝えて部屋を出るとまたすぐ戻ってくる。
「これ、お茶とお菓子です、此処で良いですか?」
「お茶?お菓子?なんか旅館みたいだけど」
「えぇ、まぁ、こんな感じで」
どんな感じかよく分からなかったが、これっと言ってチップを手渡す。
「あっ、いや、どうしよう?えっ、そうですかぁ」
照れ隠しに笑って、ポケットにしまい込む。
スマートさには欠けてはいるが嫌な感じはなく、親戚の子に小遣いをあげたような不思議な気分に。
部屋の設は、畳敷きにベットという折衷式で、これも都内の一流ホテルとしては珍しい。
この時点では、此処大丈夫なのか?となる。
しかし、刻が経つにつれ “ 山の上ホテル ” の凄みが染み入ってきて、気づくと虜になってしまう。
館内では、その名を馳せた天麩羅屋での和食をはじめ仏料理、中華料理、ステーキなどが供される。
ワインバーをはじめ全てを巡ったが、どこも丁寧で味は申し分ない。
いまだに電気式ではなく氷型冷蔵庫が使われ毎朝巨大氷が運び込まれるという徹底ぶりにも驚く。
滞在中もっとも有難かったのは、喫茶室 “ Hill Top ” の一二時間かけて抽出される水出珈琲。
この喫茶室は、照明器具から食器にいたるまで全てが Hungary の名陶 HEREND で統べられている。
名陶の器で飲む珈琲は確かに贅沢だが、洗い場のひとは大変だろう。
下世話ながら、割れば数万円の代物が使いものにならなくなるのだから。
また、このちいさなホテルには、カウンターに数席という止まり木のようなちいさな BAR が在る。
一流の Bartender が出迎えてくれる本格派の英国 BAR も趣があり落ち着く。
さらに、Room Service は二四時間可能で、その質は店で注文したものと遜色ない。
こうして “ 山の上ホテル ” の魅力をあれやコレやと語りだすと、尽きることがない。
なので、後ひとつだけにする。
幾度となく通い始めると従業員とも顔見知りになってくる。
あるとき、夜中にロビーに降りていくと、おとこが真鍮製の階段手摺を磨いている。
目が合うと、仏料理 “ La Vie ” の料理長だった。
「夜中になにしてんの?」
「手摺をちょっと磨いてまして」
「それは見りゃわかるよ、で、なんで料理長が手摺磨いてんの?」
「曇っていたもんで」
会話は成り立っていないが、わかったこともあった。
ルーム係の若い女性から、お会いしたことはないが社長まで。
此処の人達は皆、此処を単に職場だとは考えておらず、多分我が家のような感覚なのだろうと想う。
自邸の手摺を磨くのに、職業上の立場を考える人間はいない。
曇っているから磨くそれだけだ。
食器棚にあるとっておきの高価な器を洗う際にも、欠けたりしないよう気を配るはずだ。
もし、職場の備品のひとつだと軽くみていれば、ひと月も経たないうちに数は半減しているだろう。
改めてこのホテルを眺めると、ほんとうに皆が目立たないように細々と立ち働いていると気づく。
究極の居心地の良さは、このどこか素人臭い家族的なもてなしによるのだと想う。
ホテルの片隅に飾られた兎と亀の Object 。
館の設計者 William Merrell Vories が好んだ兎と亀の物語に因んでいるという。
ノロマでも良いからゆっくりと育てていく事の大事さを説いているらしい。
流行りの Luxury Hotel が追い求める人の作業効率や部屋の稼働率とは無縁の価値観が此処にはある。
だからこそ、いつまでも在って欲しいと願う宿だった。
しかし、それを許さない事情があったようだ。
今年二月に休館しまた再開するものと想っていたが、先日どうやらそれが難しいのだと知った。
時代が亀に寄り添ってくれなかったのが、残念でならない。

想えば、いろんなことがあった。
昭和の大俳優 故・高倉健さんから注文された鞄をお渡ししたのも此処のロビー喫茶だった。
多くの気の合う仲間と食べて飲んで刻を過ごしたりもした。
「じゃぁ、山の上ホテルで」
そう言って誘って逢える日は、もう来ない。

永い間ごくろうさま。お世話になりました。さようなら。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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六百五十一話 忌明け

母が他界したって blog に載せたもんだから、いろんな方に気を遣わせてしまった。
ほんと、すいません。
お気持ちだけを有り難く頂戴いたします。
まもなく満中陰の法要を営み忌明けとなりますが、急な事でまだピンとこない始末です。
東京の友人から電話があった。
「大変だったねぇ。おいくつ?」
「九六歳」
「そんなに頑張っちゃたんだぁ」
「で、スッと幕引かれたんでしょ、立派だよねぇ、息子孝行じゃん」
「実感ないけどね」
「いらないよ、そんなもん、ご本人だって気づいてないんだろうから、きっとそうだよ」
「最高じゃん」
「俺の口からは言えないけど、いや、お互いの仲だから言っちゃうかぁ」
「ご逝去おめでとうございます!俺も見習わせていただきます!」
「これから四九日、百箇日と続くけど、しっかり長男の務め果たしてあげてください」
「この度は、ご愁傷さまでした」
まったくその通りだと想う。

ひとに祝ってもらえる死なんて、そうそうあるもんじゃない。

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六百五十話 極楽往生

八月九日の夕刻。
「口寂しいからなんかお菓子持って来てよ」
「いやいや三日後に帰ってくるんだから、ちょっと我慢しろよ」
「まぁ、じゃぁ、そうするわ」
「帰って来たら、焼肉でも食べにいく?」
「いいねぇ、焼肉、ありがと」
施設でリハビリテーション中の母から 掛かってきた電話でのやりとりだった。
二時間後、別の相手からまた電話が掛かってきた。
「急に倒れられて、意識をなくされているので今から救急搬送いたします」
「えっ?誰が?そもそもあなた誰?」
「お母さまです!施設の看護師です!」
「まぁ、とにかく搬送先の病院に向かいます」
台所で、夕食を支度していた嫁が。
「どうしたの?」
「婆さんが倒れたって施設が騒いでんだけど」
「なんかの間違いじゃないの?さっきの電話お母さんからだったんじゃないの?」
「うん、口寂しいとか、焼肉食いたいとか言ってたけどな」
向かった先は、国立循環器病センター。
救急救命の病床で、いびきをかいて寝ている母と対面する。
「先生、母の容体は、どうなんでしょうか?」
「多分、急性心筋梗塞だと思いますが、容体は、たいへん厳しいです」
「いや、母に心臓疾患なんてありませんよ、ってか、歯医者にすらかかっていないですから」
「雑なもの言いになりますが、どんな方でも九六歳の心臓は、九十六歳なりの心臓なんです」
端的に的を得た診断だと納得した。
「どうされますか?此処でなら積極的に手術という手も尽くせますよ」
「専門医の先生を前に失礼ですが、もう、いいです、それより、今、本人苦しいんですかね?」
「倒れられた瞬間ウッという感覚はあったかもですが、以後はなんの感覚もないと思います」
「じゃぁ、このまま・・・・・・」
「えぇ、逝かれるんじゃないかと」
翌朝五時、医師の推察通りそのまま亡くなった。
生前、母親はよく言っていた。
「わたし、蝋燭の灯がフッと消えるみたいに逝くんやから、勝手にいらんことせんといてな」
マジで、その通りに逝きやがった。
改めて想う。
これまでの人生で、母ほど生きたいように生きた人と他に出逢ったことがない。
運と人に恵まれ続けた九六年間。

ほんと羨ましいかぎりだわぁ。  合掌

 

 

 

 

 

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六百四十九話 梅雨時の一席

それにしても蒸し暑い!
そんなじめついた梅雨空の下、大阪に落語を聴きにいく。
木戸銭叩いての落語なんて久しぶりだ。
“ 春風亭一之輔のドッサリまわるぜ!二〇二四 ” の大阪公演。
前座は、二番弟子の与いちで “ 磯の鮑 ”
その後、一之輔師匠の “ 反対俥 ” “ 千両みかん ” と二題続いて仲入り。
この頃には、冷房と師匠の軽妙な話芸ですっかり汗もひき、良い心地で本日最後の演目へ。
大抵の寄席では、演目が前もって明かされることはない。
そのお題を噺家が本題に入る前に自分の中で言い当てるのも落語の楽しみのひとつだと思うのだが。
これが、なかなかに難しい。
師匠が、枕を振る。
米国大統領 Joe Biden が酷い老いぼれぶりで、世界はこの先どうなるのか?という時事ネタで誘う。
そして、外は梅雨時で雨。
雨のなか老いた隠居が登場する人情噺? “ 道灌 ” ? “ 天災 ” ?
いまひとつわからんなぁ。
いよいよ本題に。
大店のご隠居ふたりが、縁側で碁を打つところから噺は始まる。
隠居?雨?そして碁?
あぁ、“ 笠碁 ” かぁ。
もともと大阪天満の青物市場を舞台として創られた “ 千両みかん ” に続いて、上方生まれの “ 笠碁 ”。
場、天候、時事に客層 などあらゆる気配をよんで高座にかけるネタをその場で決める。
噺家の懐に仕込んだネタ数と場を読む感性が問われる瞬間なのだと思う。
滑稽噺から人情噺まで二〇〇を超えるネタを持ち、その噺を重くも軽くも演じわけられる噺家。
いま最も札が取りにくい当代随一の噺家と言われる春風亭一之輔とは、そういう噺家らしい。
先日、古典落語に通じた友人との会話で、 春風亭一之輔を聴きに行くと相手に伝えた。
「いいねぇ、一之輔の魅力は毒で、吐いた後のあの微笑みが格別だよ」
「二一人抜きの真打昇進は伊達じゃなく、まったくもって図太い噺家だわ」
米国大統領の老害に触れ、その流れから落語界の重鎮だった師匠連中の名を口にする。
柳家小さん師匠の名も。
「歳を重ねると味がでてくるって言うんだけど、落語の味って、なんなんですかねぇ?」
ニタっと笑って顔を上げる。
そして、その人間国宝小さん師匠の十八番だった “ 笠碁 ” へと繋いでいく。
上方の箱でとはいえよくやるもんだ。
しかし、笑いに嫌味も粘り気もない。
スッとした高座姿とキレの良い口跡で、どこか涼やかで乾いた空気が漂う。
不思議な魅せ方をする噺家だ。
いよいよ咄は、サゲへと向かう。

碁盤の上に雨雫が垂れ落ちる。
「あっ!お前さん、笠を被ったままじゃねえか」

梅雨時の一席、お見事でございました。

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六百四十八話 久留美餅

海辺の庭にある古い藤棚を塗替えることにした。
高さ二メートル超え、広さ7畳敷きの鉄製棚、錆を落とし塗装を施す。
暑い最中、とてもひとりではやってられないので助っ人を頼む。
というか、なんなら助っ人ひとりでやってもらいたい。
陶芸家で庭師の YUMA 君に声をかけた。
実家は海辺の家近くだが、今は対岸の堺で暮らしている。
作業の途中、昼飯を食いながら訊く。
「堺だったら、“ かん袋 ” っていう和菓子屋知ってる?」
「いえ、越して間がないんで近所あんまり知らないですよね、古墳とかも行けてないんですよ」
「古墳?あんなの空から眺めてなんぼで、地上からだとただの藪だから、しょうもないよ」
「それより、堺と言えば “ かん袋 ” でしょ、それしかないから他所は行かなくていいって」
「いやに、その店屋推しますねぇ、そんなに旨いんですか?」
「日本の銘菓で此処と肩を並べられるとすれば、河内の御厨巴屋団子くらいだから」
「 団子?河内?ただの餅好きじゃないですか?それに河内って範囲狭っ!」
早速、ググってみて。
「おっ、結構有名みたいですねぇ、それに家から近いですよ」
「マジかぁ!騙されたと思って行ってみて」

“ かん袋 ”

鎌倉時代末期、 御餅司として創業と伝えられ、七〇〇年近く二七代にわたって継がれてきた味。
大阪城築城時の噺。
当代の店主・和泉屋徳左衛門が、瓦を餅創りで鍛えた腕力で天守まで放り上げて運んだ。
その様子が、かん袋(紙袋)が散るようだったことから、時の太閤が “ かん袋 ” と名付けた。
以降、“ 和泉屋 ” から “ かん袋 ” へと屋号を転じ現在に至る。
商いものは、くるみ餅一手に限られていて他にはない。
くるみとあるが、胡桃が入っているわけではなく豆打を塩味で挽き合わした餡で餅を包んでいる。
素朴だが、不思議と虜になる独特の風味だ。
ほんとうに旨い。
幼い頃、この近くで母親の友人が事業をしていた縁で、よく食べさせてもらった。
夏には、ふんわりとしたかき氷をのせて食べる “ 冷やしくるみ餅 ” がまた絶品。
この類いのものは他にないではないのだが、“ かん袋 ” にはまったく及ばない。
あぁ、“ かん袋 ” のくるみ餅、食いてぇ!

二日かけて藤棚の塗装を終え二週間経った昨日、夕刻に YUMA君がやって来た。
「これ」

「あっ!えっ?買ってきてくれたの?」
「今朝行ってきて、すごく並んでたんですけど、なんとか買えたんでお持ちしました」
この菓子は、その日に口に入れないとなんの値打ちも無くなってしまう。
なので、買ってその足で堺から海辺の家まで届けてくれたのだ。
まだ自身も食べてないらしい。
頼んだわけでもないのに、ありがたい話だ。
早速、晩飯の後にいただく。
「そうそう、この味、何年ぶりだろう」

YUMA君、ありがとうございました、感謝です!

 

 

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六百四十七話 銀煙管

一七年ほど前、親父の遺品を片付けていた際の噺。
書棚から一本の煙管が出てきた。
煙草をやらない親父が煙管?不思議に思って嫁に尋ねると。
「お義父さん、なんか京都の煙管師に注文してたみたいよ」
鬼平犯科帳で長谷川平蔵役を演じた中村吉右衛門さんが劇中愛用されていた銀煙管らしい。
「馬鹿じゃないの!なんでまた?」
「さぁ?なんでだろうね、欲しかったんじゃないの」
原作者・池波正太郎先生は、 “ 大川の隠居 ” でこの煙管について語っておられる。
平蔵の亡父・宣雄が京都奉行時代、京の名工・後藤兵左衛門に造らせた銀煙管。
二〇センチほどの銀胴には、長谷川家の家紋 “ 釘抜 ” と “ 昇鯉 ” の意匠が凝らされてある。
結局のところ、何故親父がこれと同じ煙管を注文したのかは今でも分からない。
そもそも遺品整理の際に交わした噺などすっかり忘れていた。
そんな記憶の片隅にもなかった煙管が、昨日劇場で蘇る。
新時代の “ 鬼平犯科帳 ” が幕を開けた。
叔父に代わって、五代目火付盗賊改方長官・長谷川平蔵 役を務めるのは、一〇代目松本幸四郎さん。
若き日の平蔵・銕三郎役を、長男・八代目市川染五郎さん。
密偵・同心・盗賊など、欠かせない役所にも納得のいく役者の方々が顔をそろえられている。
見事な配役だと思う。
また、山下智彦監督はじめ脚本・撮影・照明・録音・殺陣・美術・衣装・床山など、製作陣も一流。
“ 分とくやま ” 亭主・野崎洋光さんまでが、料理監修として名を連ねる。
絶対に半端な失敗は許されない、そんな気概に満ちた布陣。
京都時代劇文化にあって “ 鬼平犯科帳 ” とは、そこまでの重い存在なのだと改めて感じた。
作品自体素晴らしかったが、個人的にもっとも印象的だったのは染五郎さんだった。
放蕩無頼の “ 本所の銕 ” が着流で歩く、その画は吉右衛門さんが演じられた姿を彷彿とさせる。
そして、物語中盤。
役宅の縁側に腰を下ろし思案する平蔵、その手にはあの銀煙管が。
本作では、吉右衛門 さんが劇中愛用されていたものを、幸四郎さんが引き継がれたらしい。
一本の煙管が、銀幕で名優の代を繋ぐ。
さすが梨園、粋な噺だ。

そう言や、当家の銀煙管どこいったのかなぁ?

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六百四十六話 湾岸の下町に本気の boulangerie を

海辺の家から車で一〇分ほど東に “ 和田岬 ” という湾岸の街がある。
すぐそこなんだけど、便が悪い辺鄙な場所。
噂では、こんな場所に超絶に旨いパン屋があるらしい。
とりあえず、嫁とあるという笠松商店街を目指して行ってみた。
商店街って、いつの噺?
ほとんどのシャッターが下りていて、ただの下町の路地にしか見えない。
車を停めて歩いていると、横を若い夫婦が駆けて通り過ぎていく。
その先に、人集りが。
「あそこじゃないの?」
「嘘だろ?なんでこんなとこでパン屋始めたんだろう?」
小さな看板が立ててある。

“ boulangerie maison murata ” たしかに此処みたいだ。
嫁に。
「この店屋、多分そうとうに 旨いよ、俺鼻が利くから」
店先まで、なんともいえない 甘く香ばしい匂いが漂う。
店内の棚には、およそ考えつく限りのいろんな種類のパンが所狭しと積まれている。
本格的な PAIN DE CAMPAGNE から餡パン、果ては メロンパンまでが並ぶ。
「凄ぇなぁ!どれも滅茶苦茶旨そうだわ」
地元の子供が喜びそうなモノまであって、気取り無い品揃えの構えが良い。
添加物を使わず、天然酵母から生まれる夥しい数のパン。
居並ぶ客も多いが、こなす職人の数もちいさな店にしては一五人ほどいる。
その一五人が、ほぼ無言で無駄なく素早く交差していく。
たいした店屋だと想う。
店主は、村田圭吾さん。
お若いが、その職歴は華やかだ。
一五歳からキャリアをスタート。
仏流パン食文化を神戸に広めた故 Phillippe Bigot 氏の元で、製パン技術を学び渡仏。
巴里九区の名店 Maison Landemaine で職人として働く。
数年後、職人の指導を任されるまでになる。
帰国し下町で地元住人を相手に本気の boulangerie をとこの地で開業。
このひとは、人としても職人としても変わっている。
製パンは recipe と科学に尽きる、我慢や苦労は何の意味も為さない。
なにより効率を重視し、製パン業がしんどい稼業ではないようにすべき。
腕ではなく、脳を使え。
なんてことを、周りに吹聴している。
maison murata の基本調理法は、「高水和・高分解」なんだそうだ。
水分を多めに冷蔵庫で時間をかけて発酵させる。
そして、調整点を見極めることで伸縮性の高いもっちりした生地に仕上がる。
素人には、なんの興味も湧かないが、これが、自らを発酵職人と名乗る所以らしい。
よく解せない話はともかく、後に待つひとを気にしつつあれこれ選んで会計へ。

海辺の家に戻って、さぁ、食うぞぉ。
普通であって、それでいて確かに旨い。
ハード系にもデニッシュ系にもそれぞれに違った風味と食感が工夫されている。
一度食べただけだが、これだと食べ飽きないだろう。
正直、今まで食べてきたパンと比べて、常食とするならこれが一番口に合うかもしれない。
日本の食文化と仏の食文化には、大きな隔たりがある。
それを承知で、朝昼晩通して毎日の食卓にパンをと考えた時、これならと思えるパン。
maison murata のパンは、そんなパンだ。
何故、この街で?
食べてみて、その答えが少し分かったような気がする。
店主 村田圭吾さんの口上。

みなさまの暮らしが、当店のパンがあることで、より豊かなものになれば幸いです。

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