自分にとってかけがいのないと言ってもよい宿屋が数軒ある。
南仏 ARLES “ Hotel Nord Pinus ” 巴里 Saint-Honore “ Hotel Costes ” 京都 麸屋町 “ 俵屋旅館 ” など。
館に重厚な物語を秘めながら、それでいてどこか素人臭い。
仕事で碌でもない事があっても、帰りつけばホッと一息つけて安らぐ。
宿屋という商いは、難しい稼業だと想う。
やらなくては駄目で、かといってやり過ぎても鬱陶しがられる、塩梅が求められるのだ。
かつて東京出張の際、雨の予報だと予約するホテルがあった。
用を終え、戻ってまた雨の中を飯を食いに出かけたり飲みに行くのも億劫だ。
旨い飯が食えて、落ちつけるBARが在って、ちゃんとした珈琲がいつでも飲める宿屋を探す。
そうした訳で行き当たったのが、お茶の水に在る “ 山の上ホテル ” 。
川端康成、三島由紀夫、池波正太郎、伊集院静など、数多くの文豪が別宅と呼んで愛した稀有な宿。
はじめての宿泊時、部屋に案内してくれたのは、ちょっと緊張気味の若い女性だった。
荷物を置いて、設備の仕様を伝えて部屋を出るとまたすぐ戻ってくる。
「これ、お茶とお菓子です、此処で良いですか?」
「お茶?お菓子?なんか旅館みたいだけど」
「えぇ、まぁ、こんな感じで」
どんな感じかよく分からなかったが、これっと言ってチップを手渡す。
「あっ、いや、どうしよう?えっ、そうですかぁ」
照れ隠しに笑って、ポケットにしまい込む。
スマートさには欠けてはいるが嫌な感じはなく、親戚の子に小遣いをあげたような不思議な気分に。
部屋の設は、畳敷きにベットという折衷式で、これも都内の一流ホテルとしては珍しい。
この時点では、此処大丈夫なのか?となる。
しかし、刻が経つにつれ “ 山の上ホテル ” の凄みが染み入ってきて、気づくと虜になってしまう。
館内では、その名を馳せた天麩羅屋での和食をはじめ仏料理、中華料理、ステーキなどが供される。
ワインバーをはじめ全てを巡ったが、どこも丁寧で味は申し分ない。
いまだに電気式ではなく氷型冷蔵庫が使われ毎朝巨大氷が運び込まれるという徹底ぶりにも驚く。
滞在中もっとも有難かったのは、喫茶室 “ Hill Top ” の一二時間かけて抽出される水出珈琲。
この喫茶室は、照明器具から食器にいたるまで全てが Hungary の名陶 HEREND で統べられている。
名陶の器で飲む珈琲は確かに贅沢だが、洗い場のひとは大変だろう。
下世話ながら、割れば数万円の代物が使いものにならなくなるのだから。
また、このちいさなホテルには、カウンターに数席という止まり木のようなちいさな BAR が在る。
一流の Bartender が出迎えてくれる本格派の英国 BAR も趣があり落ち着く。
さらに、Room Service は二四時間可能で、その質は店で注文したものと遜色ない。
こうして “ 山の上ホテル ” の魅力をあれやコレやと語りだすと、尽きることがない。
なので、後ひとつだけにする。
幾度となく通い始めると従業員とも顔見知りになってくる。
あるとき、夜中にロビーに降りていくと、おとこが真鍮製の階段手摺を磨いている。
目が合うと、仏料理 “ La Vie ” の料理長だった。
「夜中になにしてんの?」
「手摺をちょっと磨いてまして」
「それは見りゃわかるよ、で、なんで料理長が手摺磨いてんの?」
「曇っていたもんで」
会話は成り立っていないが、わかったこともあった。
ルーム係の若い女性から、お会いしたことはないが社長まで。
此処の人達は皆、此処を単に職場だとは考えておらず、多分我が家のような感覚なのだろうと想う。
自邸の手摺を磨くのに、職業上の立場を考える人間はいない。
曇っているから磨くそれだけだ。
食器棚にあるとっておきの高価な器を洗う際にも、欠けたりしないよう気を配るはずだ。
もし、職場の備品のひとつだと軽くみていれば、ひと月も経たないうちに数は半減しているだろう。
改めてこのホテルを眺めると、ほんとうに皆が目立たないように細々と立ち働いていると気づく。
究極の居心地の良さは、このどこか素人臭い家族的なもてなしによるのだと想う。
ホテルの片隅に飾られた兎と亀の Object 。
館の設計者 William Merrell Vories が好んだ兎と亀の物語に因んでいるという。
ノロマでも良いからゆっくりと育てていく事の大事さを説いているらしい。
流行りの Luxury Hotel が追い求める人の作業効率や部屋の稼働率とは無縁の価値観が此処にはある。
だからこそ、いつまでも在って欲しいと願う宿だった。
しかし、それを許さない事情があったようだ。
今年二月に休館しまた再開するものと想っていたが、先日どうやらそれが難しいのだと知った。
時代が亀に寄り添ってくれなかったのが、残念でならない。
想えば、いろんなことがあった。
昭和の大俳優 故・高倉健さんから注文された鞄をお渡ししたのも此処のロビー喫茶だった。
多くの気の合う仲間と食べて飲んで刻を過ごしたりもした。
「じゃぁ、山の上ホテルで」
そう言って誘って逢える日は、もう来ない。
永い間ごくろうさま。お世話になりました。さようなら。