六百五十九話 シン・トンカツ

神戸で夜の顔といえば、東門街。
それなりの歓楽街ではあるんだけど、大阪の北新地ほどオッサン臭くもない。
学生や外国人も多く行き交い、場としての敷居も低い。
震災やコロナ禍で、ずいぶん面子も変わってしまったが、それでも港街一の歓楽街として今も在る。
生田神社の東門前であることから東門街。
その生田神社にほど近い路地奥に人気の BISTRO が在るらしい。
“ BISTRO HEEK ”
ビルの二階、カウンターとテーブル席ひとつのちいさな店屋だ。
肩肘を張らない店屋と聞いたが、これは張らんわなぁ。
予約したテーブル席以外は鮨詰め状態で満席、人気なのは噂通りらしい。
「いらっしゃいませ!ご予約八時まで空いてなくてすいませんでした」
「ちょっと、先に便所借りるよ」
「どうぞ、その奥になってます」
用を足していると、壁に貼られた紙に書かれてある文言が目に入った。
“ TAKE OUT   HEEK 特製 カツ・サンド ”
カツ・サンドがあるということは、俺の大好物である豚カツもあるのかぁ?
「ひょっとして、豚カツやってんの?」
「えぇ、できますよ」
「マジでぇ!じゃぁ、とりあえずその豚カツで」
そして、でてきたのがこの一皿。
「なんだぁ、これ!」
「ねぇ、疑うわけじゃないんだけど、この厚みで火通せてんの?」
「大丈夫ですよ、芯温きっちり測って揚げてますから」
「じゃぁ、いただくね」
骨付き三田豚肩ロースのカツレツ。
見た目も味も、豚カツ専門店とも洋食屋のそれとも全くの別物。
しかし、何かと訊かれれば、まごうことなき豚カツだ。
骨付きならではの絶妙の歯応え、脂の溶け具合、薄くさっぱりとした衣。
Parmigiano Reggiano の風味も合わさって、格別の一皿に仕上がっている。
伊風仕立なんだけど、こんなの現地でも食った記憶がない。
伊・仏・日・中どんな国のどんな調理法でも貪欲に取入れる HEEK ならではの逸品なのかも。
連日、地元常連が通いつめる “ BISTRO HEEK ” は、本日も満席です。

そりゃぁ、そうなるわなぁ。

 

 

 

 

 

 

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六百五十八話 都落ち

“ 我浮黄河去京関 ”
この際、いっそ李白を気取って都落ちでもするか。
とは言え、再起を期すわけでもなく自ら好んでなんだけど。
北摂の本宅と海辺の家を行ったり来たりするのも最近辛くなってきた。
昨年夏、母親が逝ったのを機に長年暮らした本宅を手放すことにする。
三七年前。
右を向いても左を向いても豪邸が建ち並ぶ一角に稼ぎに見合わぬ家を建ててみた。
振り返れば、若気の至りで見栄を張ってみたものの、なんか性分に合わなかったようにも想う。
現役時代は、帰って寝るだけの暮しぶりだったので気にすることもなかった。
しかし、引退してこの先の最期をここで終えるのは、どう考えても自分らしくない。
そこで思い立ったのが、嫁の実家でもある築七〇年の海辺の家の解体・再建築だ。
義父からも「この家をよろしく頼む」と言われていた。
一八歳の頃から出入しているので、隣人とも親しい。
そして、なによりこの地が辿ってきた特異な来歴とそれに纏わる気質を気に入っている。
そう決めて、引退後早々に着手したのが六年前。
設計を神戸大学で教鞭をとりながら神戸北野異人館に事務所を構える建築家に依頼した。
「どういった家を望まれていますか?」
「近い将来、此処に夫婦で都落ちするつもりでいます」
「なので、都落ちにふさわしい家を考えていただければ」
「都落ち?それってなんですか?」
「言葉通りですよ」
「豪華で立派な家もいらない、洒落た個性的な家もいらない、目立たず飾らずです」
「一九五〇年代、この海辺の街場によく並んで在った民家の再現を願ってます」
「加えて、骨組みを残しての解体時に敷地から搬出する廃材は最小限で」
「用途を違えてでも可能な限り再度活かして使ってください」
改築には丸々一年を要した。
棟梁をはじめ関わってくれた皆さんには、本当によくやっていただいたと感謝している。
その後も、庭を改庭したり気になる部分に手を加えたりで刻を費やした。
そして、二週間後には本宅を引払い海辺の家に移り棲む。
これで、めでたく都落ちとなるはずである。

あとは、北摂の本宅を引継いでくださる方の暮らしぶりが幸運に恵まれますように。

 

 

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六百五十七話 German Iris

すっかりご無沙汰してます。
今年は、正月もなく、花見の宴も開かず、おとなしく毎日を暮らしています。
先日、海辺の庭の “ German Iris ” が蕾をつけた。
嫁が庭でもっとも大切にしている新種の Iris で、毎年咲くのを楽しみにしている。
その貴重な一本が無惨な姿に。
蕾をつけた茎は真ん中から折られ、芝生に転がっていた。
おそらく犯人は、顔見知りの野良猫なんだろうけど、よりにもよってこれを狙うとは。
まったく命知らずの暴挙にでたもんだ。
見つけた嫁は、もう怒髪天。
「なんてことを!どういうつもり?アイツ絶対に許さない!」
まだアイツと決まったわけでもないのだが、一旦アイツとなったらもうどうにもならない。
顔見知りのまぁまぁ可愛い顔をした野良猫を出禁にし、折れた Iris を拾って台所に。
Grappa の空瓶に水をはり茎をさして、開花させるつもりらしい。
「この状態じゃぁさすがに咲かないんじゃないの?」
「いや、わたし負けないから!」
もはや、Iris はわたしに、問題は勝ち負けになったようだ。
その後、水を換え適度な日当たりで世話してると、三日目に見事に咲いた。
「良かったよなぁ、なんとか咲いて」
「うん、それにしてもアイツ!」

咲いたからといって、許されるものではないらしい。

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六百五十六話 あの日

街は、綺麗になった。
“ 鉄塔の美女 ”とも謳われる KOBE PORT TOWER の改修工事も終わった。
そして、当時半壊だった “ 海辺の家 ” もこうして元の姿を取り戻した。
普段、あまりもう口にすることも少なくなった。
それでも、やっぱりこの日にはあの日を想い出す。
もう三〇年経ったのかぁ。

長かったような、短かったような・・・・・。

 

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六百五十五話 良いお年を

仏道の決まりで、新年のご挨拶は控えさせていただきます。
皆様、良い年を迎えられますように。

明年もよろしくお願いいたします。                  二〇二四年大晦日

 

 

 

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六百五十四話 異世界ビジネス

Main culture どころか Sub culture にすらなれない。
しかし、いつの時代にもそれは確かに存在する。
Culture の周縁に居座る異彩の領域。
日本美術史の系譜にも、江戸時代?いや、もっともっと昔から隠れるようにして在る。
怪奇美術とも暗闇美術とも言われ受け継がれてきた。
一九八〇年代の業界にも継承者はいた。
「あいつ、上手いのになんであんなひとの身体から膿が出るような絵ばっか描いてんの?」
「気持ち悪いよなぁ、でもあれでどうやって飯食ってんだろう?」
「きっと、ああいうの好きな輩が意外といるんじゃないの」
「でも、あれ、描けって注文されて描けるもんかなぁ?」
「一枚二枚なんとかなっても、ずっとは無理じゃねぇ」
「ところで、あいつ、なんていう名前のやつだった?」
失礼極まりない話だが、だいたいがそんな感じだった。
とはいえ、この異界の扉をまったく開けたことがないという人もまずいないだろう。
一九六〇年代、まだ貸本漫画が流通していた時代に現れたふたりの天才によるところが大きい。
ひとりは、“ 墓場の鬼太郎 ” の水木しげる先生。
もうひとりは、“ 紅蜘蛛 ” “ 蛇少女 ” の楳図かずお先生。
巨匠が描く怪奇漫画は、少年少女を虜にし居所は周縁ながら一躍皆が知るところとなる。
そして今、怪奇美術界で筆をふるう絵師達の多くがこの時代に生まれ多大な影響を受けている。
最初に読んだ漫画が楳図かずおの “ ミイラ先生 ” だったという伊藤潤二もそのひとりだと思う。
先日、伊藤潤二展 “ 誘惑 ” を観に伊丹市立 Museum へ。
あいかわらずだが、氏の描く女性は別嬪だ。
美人とか綺麗な女性とかではない。
明治期に発案された “ 別嬪 ” という言葉の方が作品の風情に似合うような気がする。
格別の美貌が、対極にある醜さを際立たせ恐怖へと誘う。
伊藤氏の真骨頂で館内は満たされ、見事に気持ち悪く怖い。
丸ペン一本で、誰も見たことのない世界を創りだす伊藤潤二の画業。
現実離れした奇抜で幻想的な芸術が Surrealism の定義であるなら、氏の作品はまさにそれだ。
伊藤潤二作品は、国境を超えて世界中で高く評価されている。
その評価を見せつけられたのは、観終わった後の Museum Shop でのことだった。
背中に伊藤作品が刺繍されたスカジャンが掛けられている。
値段は、六万円超え。
6万!高っかぁ〜、誰が買うのこれ?と呆れていたら、後の会話が聞こえた。
「あのスカジャンだけど、僕にはちょっとちいさいです」
嘘だろ?サイズの問題かよ?
「大丈夫ですよ、XL もご用意してますから』
えっ!あんのかぁ!
振り返ると、白人の OTAKU が鏡の前でピンク色のスカジャンを試している。
パッツンパッツンなんだけど、似合ってねぇなぁ、全てにおいて全然似合ってない!
「じゃぁ、これも」
あんた、それ買うのかぁ!
「これも入れて全部で幾らですか?」
「え〜と、でも一〇〇万円もいかなそうよ」
一〇〇万!このレジ係のおばちゃん、悪魔か?展覧会の絵より怖ぇぇわ!
台の上には、伊藤グッズが山のように積まれている。
「おにいさん、どこまで帰るの?三袋以上になるけど持てる?」
「大丈夫、どこも寄らずに京都のホテルへ帰るから」
「それに、さっきのは隣の郵便局から送ったから、それは手持ちで」
おいおい、これって二巡目なのか?一体幾ら使ったんだ?
オメェ、何者なんだよ?転売屋かぁ?
下世話ながらだけど伊藤潤二さん、グッズ販売でもガッツリですよねぇ。
夫婦揃って凄ぇなぁ。
奥様は、妖怪絵師の旗手と謳われる石黒 亜矢子さんだ。
意外と馬鹿にできない異世界ビジネス。

やるもんだ。

 

 

 

 

 

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六百五十三話 邸宅で観る Andrew Wyeth の絵

もし、米国という国家に一片でも善良な心があるのだとしたら。
その心を画業に於いて表現しえた唯一無二の画家だと僕は信じている。
“ Andrew Wyeth ”
一九七四年、初めて目にする Wyeth の絵に受けた衝撃を今でもよく憶えている。
徹底した基礎訓練による圧倒的な技術。
解剖学の領域にまで達する写実的人物像への探究。
当時中学生だったが、こんな絵を描く画家が世界のどこかにいるという事実に驚いた。
自分は十四歳、画家は五七歳。
事と次第によっては、自分も将来一枚なりとも描けるようになるかもしれない。
そうした錯覚から水彩画を始めた。
努力も探究心もなにより才能も到底足らざるまま今だ一筆たりとも描けていない。
画家は生涯を米国北東部の原風景とそこに暮らす人達を描くことにひたすら費やした。
夏場は Maine 州 Rockland 郊外、冬場は Pennsylvania 州 Chadds Ford と居を移しながら。
一九八七年頃、米国出張で初めて両地を訪れた。
建国時代に遡る清教徒的な雰囲気は、画家の青年期から比べると随分薄らいでいたのだと想う。
それでも物質至上主義を謳歌する他の地域にはない禁欲的な空気感が僅かだが確かにあった。
実は、米国という国の始まりは善良な精神に基づいていた。
四〇年近く経った今、そんな与太話を信じる者はもう誰もいない。
今、米国のどこを掘り返してみてもそんな証はどこにもない。
だが、善良な精神の記憶は Wyeth の絵にだけはこうして残されている。
一九四八年 Andrew Wyeth は、現代米国具象絵画の最高傑作とも評される作品を産む。

“ Christina’s World ”
病で歩行困難だった Miss Christina Olson が家に向かって這いながら進む姿を描いている。
この作品は、実際に Wyeth が目にした光景で再現描写だという。
Miss Christina Olson はこの当時五五歳で、この他にもWyeth 作品には多く登場する。
所蔵しているN.Y.近代美術館を含め五度にわたってこの絵を観てきた。
僕は、この作品をある種の宗教画だと想っている。
悲しみや憐れみを一度として感じたことはない。
圧倒的な畏敬の念と力強さが画面を支配していて、いつ観ても勇気づけられる。
障害に見舞われ孤独であったとしても、存在感を失わず強固な意志で前を向いて生きていく。
この奇妙な構図によって強調される距離感は、ひとが生涯歩む道程の長さなのかもしれない。
また、草の一本一本まで丁寧に写した筆跡は、描くというより祈るというに近い。
教訓めいた宗教画では表現されない精神性の本質を現実の対象として描きあげていると思う。
Andrew Wyeth は、つつましくとも力強く生きる障害者、移民、黒人達を多く描いている。
美醜や人種に惑わされず、生き様そのものを真正面から見つめて描いた。
そこにこそ、米国という国家が本来目指すはずだった力の源泉があったような気がする。
三〇年ぶりに Andrew Wyeth 作品を前にしてそんなことを想った。

紅葉真っ盛りの大山崎山荘美術館。

Maine 州の Olson House とは趣きが違うものの旧い邸宅での Wyeth 展は格別でした。

 

 

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六百五十二話 じゃぁ、山の上ホテルで

自分にとってかけがいのないと言ってもよい宿屋が数軒ある。
南仏 ARLES “ Hotel Nord Pinus ” 巴里 Saint-Honore “ Hotel Costes ” 京都 麸屋町 “ 俵屋旅館 ” など。
館に重厚な物語を秘めながら、それでいてどこか素人臭い。
仕事で碌でもない事があっても、帰りつけばホッと一息つけて安らぐ。
宿屋という商いは、難しい稼業だと想う。
やらなくては駄目で、かといってやり過ぎても鬱陶しがられる、塩梅が求められるのだ。
かつて東京出張の際、雨の予報だと予約するホテルがあった。
用を終え、戻ってまた雨の中を飯を食いに出かけたり飲みに行くのも億劫だ。
旨い飯が食えて、落ちつけるBARが在って、ちゃんとした珈琲がいつでも飲める宿屋を探す。
そうした訳で行き当たったのが、お茶の水に在る “ 山の上ホテル ” 。
川端康成、三島由紀夫、池波正太郎、伊集院静など、数多くの文豪が別宅と呼んで愛した稀有な宿。
はじめての宿泊時、部屋に案内してくれたのは、ちょっと緊張気味の若い女性だった。
荷物を置いて、設備の仕様を伝えて部屋を出るとまたすぐ戻ってくる。
「これ、お茶とお菓子です、此処で良いですか?」
「お茶?お菓子?なんか旅館みたいだけど」
「えぇ、まぁ、こんな感じで」
どんな感じかよく分からなかったが、これっと言ってチップを手渡す。
「あっ、いや、どうしよう?えっ、そうですかぁ」
照れ隠しに笑って、ポケットにしまい込む。
スマートさには欠けてはいるが嫌な感じはなく、親戚の子に小遣いをあげたような不思議な気分に。
部屋の設は、畳敷きにベットという折衷式で、これも都内の一流ホテルとしては珍しい。
この時点では、此処大丈夫なのか?となる。
しかし、刻が経つにつれ “ 山の上ホテル ” の凄みが染み入ってきて、気づくと虜になってしまう。
館内では、その名を馳せた天麩羅屋での和食をはじめ仏料理、中華料理、ステーキなどが供される。
ワインバーをはじめ全てを巡ったが、どこも丁寧で味は申し分ない。
いまだに電気式ではなく氷型冷蔵庫が使われ毎朝巨大氷が運び込まれるという徹底ぶりにも驚く。
滞在中もっとも有難かったのは、喫茶室 “ Hill Top ” の一二時間かけて抽出される水出珈琲。
この喫茶室は、照明器具から食器にいたるまで全てが Hungary の名陶 HEREND で統べられている。
名陶の器で飲む珈琲は確かに贅沢だが、洗い場のひとは大変だろう。
下世話ながら、割れば数万円の代物が使いものにならなくなるのだから。
また、このちいさなホテルには、カウンターに数席という止まり木のようなちいさな BAR が在る。
一流の Bartender が出迎えてくれる本格派の英国 BAR も趣があり落ち着く。
さらに、Room Service は二四時間可能で、その質は店で注文したものと遜色ない。
こうして “ 山の上ホテル ” の魅力をあれやコレやと語りだすと、尽きることがない。
なので、後ひとつだけにする。
幾度となく通い始めると従業員とも顔見知りになってくる。
あるとき、夜中にロビーに降りていくと、おとこが真鍮製の階段手摺を磨いている。
目が合うと、仏料理 “ La Vie ” の料理長だった。
「夜中になにしてんの?」
「手摺をちょっと磨いてまして」
「それは見りゃわかるよ、で、なんで料理長が手摺磨いてんの?」
「曇っていたもんで」
会話は成り立っていないが、わかったこともあった。
ルーム係の若い女性から、お会いしたことはないが社長まで。
此処の人達は皆、此処を単に職場だとは考えておらず、多分我が家のような感覚なのだろうと想う。
自邸の手摺を磨くのに、職業上の立場を考える人間はいない。
曇っているから磨くそれだけだ。
食器棚にあるとっておきの高価な器を洗う際にも、欠けたりしないよう気を配るはずだ。
もし、職場の備品のひとつだと軽くみていれば、ひと月も経たないうちに数は半減しているだろう。
改めてこのホテルを眺めると、ほんとうに皆が目立たないように細々と立ち働いていると気づく。
究極の居心地の良さは、このどこか素人臭い家族的なもてなしによるのだと想う。
ホテルの片隅に飾られた兎と亀の Object 。
館の設計者 William Merrell Vories が好んだ兎と亀の物語に因んでいるという。
ノロマでも良いからゆっくりと育てていく事の大事さを説いているらしい。
流行りの Luxury Hotel が追い求める人の作業効率や部屋の稼働率とは無縁の価値観が此処にはある。
だからこそ、いつまでも在って欲しいと願う宿だった。
しかし、それを許さない事情があったようだ。
今年二月に休館しまた再開するものと想っていたが、先日どうやらそれが難しいのだと知った。
時代が亀に寄り添ってくれなかったのが、残念でならない。

想えば、いろんなことがあった。
昭和の大俳優 故・高倉健さんから注文された鞄をお渡ししたのも此処のロビー喫茶だった。
多くの気の合う仲間と食べて飲んで刻を過ごしたりもした。
「じゃぁ、山の上ホテルで」
そう言って誘って逢える日は、もう来ない。

永い間ごくろうさま。お世話になりました。さようなら。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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六百五十一話 忌明け

母が他界したって blog に載せたもんだから、いろんな方に気を遣わせてしまった。
ほんと、すいません。
お気持ちだけを有り難く頂戴いたします。
まもなく満中陰の法要を営み忌明けとなりますが、急な事でまだピンとこない始末です。
東京の友人から電話があった。
「大変だったねぇ。おいくつ?」
「九六歳」
「そんなに頑張っちゃたんだぁ」
「で、スッと幕引かれたんでしょ、立派だよねぇ、息子孝行じゃん」
「実感ないけどね」
「いらないよ、そんなもん、ご本人だって気づいてないんだろうから、きっとそうだよ」
「最高じゃん」
「俺の口からは言えないけど、いや、お互いの仲だから言っちゃうかぁ」
「ご逝去おめでとうございます!俺も見習わせていただきます!」
「これから四九日、百箇日と続くけど、しっかり長男の務め果たしてあげてください」
「この度は、ご愁傷さまでした」
まったくその通りだと想う。

ひとに祝ってもらえる死なんて、そうそうあるもんじゃない。

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六百五十話 極楽往生

八月九日の夕刻。
「口寂しいからなんかお菓子持って来てよ」
「いやいや三日後に帰ってくるんだから、ちょっと我慢しろよ」
「まぁ、じゃぁ、そうするわ」
「帰って来たら、焼肉でも食べにいく?」
「いいねぇ、焼肉、ありがと」
施設でリハビリテーション中の母から 掛かってきた電話でのやりとりだった。
二時間後、別の相手からまた電話が掛かってきた。
「急に倒れられて、意識をなくされているので今から救急搬送いたします」
「えっ?誰が?そもそもあなた誰?」
「お母さまです!施設の看護師です!」
「まぁ、とにかく搬送先の病院に向かいます」
台所で、夕食を支度していた嫁が。
「どうしたの?」
「婆さんが倒れたって施設が騒いでんだけど」
「なんかの間違いじゃないの?さっきの電話お母さんからだったんじゃないの?」
「うん、口寂しいとか、焼肉食いたいとか言ってたけどな」
向かった先は、国立循環器病センター。
救急救命の病床で、いびきをかいて寝ている母と対面する。
「先生、母の容体は、どうなんでしょうか?」
「多分、急性心筋梗塞だと思いますが、容体は、たいへん厳しいです」
「いや、母に心臓疾患なんてありませんよ、ってか、歯医者にすらかかっていないですから」
「雑なもの言いになりますが、どんな方でも九六歳の心臓は、九十六歳なりの心臓なんです」
端的に的を得た診断だと納得した。
「どうされますか?此処でなら積極的に手術という手も尽くせますよ」
「専門医の先生を前に失礼ですが、もう、いいです、それより、今、本人苦しいんですかね?」
「倒れられた瞬間ウッという感覚はあったかもですが、以後はなんの感覚もないと思います」
「じゃぁ、このまま・・・・・・」
「えぇ、逝かれるんじゃないかと」
翌朝五時、医師の推察通りそのまま亡くなった。
生前、母親はよく言っていた。
「わたし、蝋燭の灯がフッと消えるみたいに逝くんやから、勝手にいらんことせんといてな」
マジで、その通りに逝きやがった。
改めて想う。
これまでの人生で、母ほど生きたいように生きた人と他に出逢ったことがない。
運と人に恵まれ続けた九六年間。

ほんと羨ましいかぎりだわぁ。  合掌

 

 

 

 

 

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