月別アーカイブ: September 2015

四百二話 何処かへ

「なぁ、そうやって飯食いながら飯屋の blog 見るのやめれば」 「わたしのことは放っておいてぇ!」 嫁のご機嫌がこのところあまりよろしくない。 もちろん原因があって。 ここんとこ無茶苦茶に忙しく、旅はおろか飯屋にすら行けない生活が続いている。 もう何処でも良いから何処かへ行きたい。 そう思っているのは嫁だけではない。 そんなところへ、SLOWGUNの小林学さんから帽子が送られてきた。 独創的なフォルムを産み出すことで知れらる Pole Pole との共作らしい。 Pole Pole は、ご夫婦で運営されている帽子製作のアトリエで。 御主人の三浦さん には、なにか一緒にやりませんか?とお誘いいただいたことがある。 まだ実現出来ずにいるが、個人的に Pole Pole の人懐こいデザインをとても気に入っている。 この帽子も一見すると Mountain Hat なのだが、PUNK 感はそれほど主張されていない。 Crown 部分の凹凸も程よく抑えられていて、Brim は短めに返されている。 巻きの 網革ベルトは小林さんの仕業かもしれない。 Pole Pole らしくもあり、SLOWGUN らしくもある Felt Hat だと思う。 … 続きを読む

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四百一話 パクってなにが悪い!

Designer と名乗るのになにか特別な資格を修得する必要はない。 明日から Designer になりたければ、自分でそう言えば良いだけである。 他の分野については断言出来ないが、Graphic や服飾の世界ではそうなっているはずだ。 所詮その程度の肩書きなんだろう。 それなのに、昨今の五輪エンブレムの騒動を側から眺めていると。 Designer には、それが漠然とした規範や良識であっても逸脱行為は一切許されていないらしい。 法的に許容範囲であっても駄目なものは駄目という訳である。 Designer なんだから。 世間のひとは Designer という肩書きに一体なにを期待しているのだろうか? 過去に創作されたなにものにも類似しない完全なる独創性をもった作品。 そんなものは、望んでもまず存在しないんじゃないかなぁ。 もし仮にあったとしたら、よほど不勉強な奴が創った碌でもない駄作だろう。 Designer は、創ることよりも見ることに多くの時間を費やすべきだと思っている。 実際、仕事上膨大な量の作品に触れて過ごす。 その過程に於いて、なにものにも影響を受けずにいることは不可能である。 佐野研二郎氏は、そこを掘下げて表明することに腰が引けたのかもしれない。 だとしたら、その一点でしくじったことになる。 そして、言ってはならないことを言った。 「私はデザイナーとして、ものをパクるということをしたことは一切ありません」 そんな Designer は、古今東西、過去にも現在にも存在しない。 加えて、亀倉雄策先生の名を挙げるんじゃなくて、堂々と別の巨匠の名を告げるべきだった。 “ Jan Tschichold ” この独モダン・デザインの父が産んだ名作が、すべての始まりでしょ? なら。 「Jan Tschichichold の名作から着想し、独自の展開案を以って発展させ今回の作品を仕上げました」 … 続きを読む

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四百話 The Climax Bag

Deer Skin Bag です。 後藤惠一郎さんとの出逢いの原点に戻って創りました。 職人の勘と技だけを頼みにようやく漕ぎ着けました。 なんの衒いもないただの鞄です。 だけど、此処に Musée du Dragon に於いて表現したかった全てが込められています。 その屈折した想いを。 理解していただいたひとが創り、受け止めてくださった方が求める。 あたりまえのようだが、不思議な世界のようにも思える。 良くも悪くも Musée du Dragon は、そうした店屋である。 そして、本品を Musée du Dragon としてお届けする最後の鞄としたいと思う。 是非、一度手にとってご覧ください。  これが、“ The Climax Bag ” です。  

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三百九十九話 昭和な伽哩

三百九十八話 “ ご当地伽哩 ” からの続きです。 戴いたチャンピオン伽哩の封を開けて鍋に移す。 普通の伽哩ルーに比べるとドロッとしていて重く感じる。 噂では濃厚だと聞いたが、なるほど見かけからしてそうだ。 どうせなら、本場金沢伽哩と同じように喰いたい。 まず、炊きたての白飯にルーをかける。 白飯が顔を出さないようにたっぷりとルーを盛らなければならない。 次に、揚げたフィレカツを載せる。 そして、豚カツ・ソースをフィレカツだけにかかるようにして。 後は、付け合わせとしてキャベツの千切りを盛付けるといった段取りである。 もう少し本格的に設えるのであれば。 盛り皿はステンレス製で、スプーンは先がフォーク状に割れたものを用意すべきなのだそうだが。 残念ながら、ステンレス製の皿も先割れスプーンも自宅にはなかった。 陶製の皿と普通のスプーンで我慢するしかない。 少々、本格金沢伽哩としての風情は欠いたけれど。 まぁ、皿と匙で味が損なわれるということもないだろう。 食べてみた。 憶えのある懐かしい味である。 昭和の伽哩、それも三◯年代後半の味だ。 親に連れられて行った百貨店の大食堂で出された伽哩の味はこんなだった。 それこそ銀色の皿に盛られていて。 母親が家で創る伽哩とは違ったよそいきの味と香りがした。 この味は、一九六◯年頃に生まれたひとにとっては堪らない味だと思う。 Soulful Food で、癖になる。 ところで。 僕にとって、伽哩という食物に旨い不味いは存在しない。 と言うか、もし不味い伽哩というものがあるのであれば一度食ってみたいものだ。 印度、英国、香港、仏蘭西、日本など、大凡世界中どんな国にも伽哩はある。 スタイルは全く異なるが、伽哩は伽哩でそれなりに旨い。 あの Fish & Chips をご馳走だと言切るどうしようもない英国人ですら、伽哩だけは不味くならない。 高級な飯屋でも大衆食堂でも、どこで食っても伽哩は旨い。 … 続きを読む

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