五百十四話 OVER THE STRIPES

一緒にもの創りをしていて、楽な気分でやれる人とそうでない人がいる。
相性と言ってしまえばそれまでだが。
なんせ我の強い人間で成立っている業界だから、鬱陶しい場合がほとんどだ。
その中で、Over The Stripes の大嶺保さんは、数少ない相性の良いひとりだったと思う。
だが、互いの仕事のやり方はまったく異なる。
僕は、くだらない細部にまでグダグダと凝ってしまう。
大勢に影響がないと分かっていながらもやめられない。
凝っているうちに、到達すべき目標を見失ってしまうことさえある。
多分、脳の出来があまりよろしくないことが問題なのだと自覚している。
その点、大嶺さんは違う。
ひとつの目標を定めると、それに係わりのない要素は過程においてすべて捨て去っていく。
だから、仕上がった服を前にすると、当初なにをしたかったのか?が、ひとめで理解できる。
もの創りでは、端的であることは大きな武器になると思う。
最短距離で、最大の効果を得られるのだから。
多分、脳の出来がとてもよろしいのだろう。
こうした賢者と愚者がともになにかひとつのものを創ると、思わぬ効果がうまれたりする 。
それが面白くて、よくご一緒させてもらった。
以来、稼業を終えた今でも Over The Stripes の服を普段からよく着ている。
夫婦ともに気に入っている。
今は、これ。
「大嶺さん、このシャツ良いよね」
「いや、それカーディガンだから」
どう見ても、でっかいシャツなんだけど。
暑ければ鞄に突っ込んでおいて、肌寒ければ出して羽織るといったアイテムらしい。
その出し入れによって生じる皺についても一考されていて。
敢えて良い具合の皺が寄るような生地設計がなされている。
九九%の綿に、僅か一%のポリウレタンを混ぜることで意図的に計算された皺を表現できる。
都会の暮らしのなかで最上のツールとして服はどうあるべきか?
冷静に考察したひとつの答えが、 Over The Stripes によって導かれているような気がする。
過剰機能にも過剰装飾にも無縁な Over The Stripes 。
それは、言い換えれば REAL TOKYO CLOTHES なのかもしれない。
先日、二〇一八年秋冬コレクションを観に代官山のアトリエをお邪魔した。
ちょうど近所に住むお友達の方々も家族で大勢いらしていて。
ご夫婦にお子さん達、気取らない普段着の格好良さはまるでファッション誌を眺めるようだった。
実際にプロのモデルだというお母さんもおられたけれど。
日常のようで、非日常。
表層に過ぎないのかもしれないが、今の東京の姿がそこにあった。

そしてまた、OVER THE STRIPES の存在もそこにある。

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