二百三十九話 風立ちぬ

渋谷駅前の変貌ぶりは凄まじい。
駅のほど近くだが、そうした再開発の魔の手が及んでいない一画が在る。
ぽっかりと小さな穴が空いたように在る。
“渋谷区桜丘町”
夜になると、暗くて、人とすれ違うこともほとんどない。
しかし、そんな一画でも、BARや、寿司屋や、料理屋が、数軒ポツポツと営まれている。
駅から離れず、静かに、飲んだり喰ったりしたい向きには有難い。
そんな隠れ家的雰囲気が漂う界隈で、凄腕の料理人が飯屋を始めて、たいそう繁盛していると聞く。
“高太郎”という屋号の割烹で、開店二年半ほどの新店らしい。
そもそもは、松濤のビストロ “ ARURU ” に伺うつもりが定休日で振られ、予約もしていない。
⎡大将、今からなんだけど、なんとかなる?⎦
⎡いやぁ〜、ちょっと満席なんですよ⎦
⎡他に当ても無いし、なんとかなんねぇかなぁ?⎦
⎡いやぁ〜、今日は無理っぽいんですけどねぇ⎦
⎡じゃぁ、俺、なんとかなるまで待つわ⎦
⎡えぇっ、待つって、九時は余裕でまわりますよぉ、お腹大丈夫ですか?⎦
⎡大丈夫じゃないけど、しょうがねぇじゃん、二、三時間うろついてるから携帯に電話ちょうだい⎦
うろつくたって、こんな暗がり行ったり戻ったりしてりゃぁ、職質くらうかもしんないし。
どっかの BAR に潜り込んで、Campari でも舐めながら待つとするかぁ。
そうして、通りすがりの小さな BAR を覗くと。
奥のソファー席に、どっかで見覚えのある顔が 。
あっ、庵野秀明氏。
そして、隣には、鈴木敏夫プロデュ—サー。
マジかぁ?
“エヴァンゲリヲン”の産みの親にして、“風立ちぬ” では主役を務められた庵野秀明さん。
そして、“風立ちぬ” の製作会社 スタジオ・ジブリ社長の鈴木敏夫さん。
今や、日本アニメーション界を代表するおふたりのツー・ショット。
凄ぇなぁ。
へぇ〜、こんな BAR で飲んでんだぁ。
おふたりとも、ほんとに上機嫌で、楽しそうに杯を重ねておられる。
折角のプライベートなひと時に、しかも BAR で、声をおかけして邪魔するほど無粋な真似はない。
なので、またの機会にでもということにしよう。
それにしても、腹減ったぁ〜。
空きっ腹に、Campari が沁みて痛い。
二時間を過ぎた頃、ようやく携帯電話が鳴る。
⎡蔭山さんですか?もうちょっとで空きそうなんですけど、大丈夫ですか?⎦
⎡だから!大丈夫じゃないって! で、空きそうってことは、まだ空いてねぇんだな ⎦
⎡すいません、もうちょっと頑張ってください⎦
まったく、“ 風立ちぬ ” じゃなくて “ 席立ちぬ ” じゃ、洒落にもならない。
一軒目の “ ARURU ” が定休日、二軒目の “ 高太郎 ” が満席、今夜はついてない。
それから、さらに三〇分経って、目出たく席が空いたという知らせが入る。
“ 高太郎 ” へと向かう足も、空腹でふらつく。
なんせ、朝早く大阪を出てから、パン一枚しか腹に入れていない。
店前に着くと、行灯の上にビールをのせて飲みながら待っている三人組がいた。
あぁ、この人達も飯屋難民かぁ。
と思いながら、三人組の顔を覗くと。
えっ、“ ARURU ” のオーナー・シェフ夫妻じゃん。
⎡あんた達のせいで、店を休んでくれたせいで、こんな羽目になってんだけど⎦
奥様が、笑顔で。
⎡すいませ〜ん、月曜以外でまたよろしく、わたし達もこれからなんですよ⎦
何処の女将もそうだが、客の文句はさらりと躱して、笑顔で繫ぐ。
⎡そうなの?じゃ、悪いけどお先に⎦

やっとのことで、ありついた晩飯の話は次回にでも。

 

 

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