五百五十四話 色の魔術師が逝く

“ 高田賢三氏、感染症で巴里郊外の病院で逝く”
突然の報せだった。
駆け出しの頃、通い始めた巴里でお世話になったことがある。
Galerie Vivienne に在った “ JUNGLE JAP ” から近くの Place des Victoires に拠を移されていた。
一九八〇年代中頃の巴里服飾業界。
川久保 玲 Comme des Garçons や山本 耀司 Yohji Yamamoto が市場を席巻しようとしていた。
立体裁断を駆使した黒一色の世界は、ちょっとした革命だった。
平面的で絵画的な色の表現を真骨頂とされていた先生の作品とは対極にある。
よく語っておられた。
「時代がどんどん僕から遠ざかっていく」
時代を映す稼業に就く者にとっては、致命的な台詞に聞こえる。
しかし、先生からは、微塵の悲壮感も嫉妬も焦りも伝わってこない。
飄々とされていて、むしろ時代を楽しまれている。
時代と対峙する器の大きさと懐の深さが、半端なく大きく深い方だった。
よくない時には、よくない事が起きるもので。
Victoires 本店の上階で披露された Paris  Collection にうかがった時のこと。
Collection Designer にとって雌雄を決するその大舞台で、会場の照明がすべて落ちた。
暗闇に包まれ、Show どころか隣席すら見えない。
照明が復旧すると、関係者は顔を痙攣らせ、客は完全に冷めた表情。
そこに爆笑する笑い声が響く。
Runway 袖に立つ高田賢三先生だった。
再開された Show は大受けし、立ち上がっての拍手に応える堂々とした先生の姿を見て思う。
女性的な物腰の先生だが、なにがあろうとも動じない不動の姿勢は、日本古来の武士のようだった。
このひとだからこそ、閉鎖的だった巴里の服飾業界の扉を日本人としてこじ開けられたのだろう。
それからも、流行の成行が変わっていくなか多くの仏人が先生の服を愛した。
特権階級の人々だけでなく、Marché でも Café でも駅でも街中で “ KENZO ” を見かける。
CDG 空港から巴里へのタクシーの中で、移民の運転手が自慢げに。
「日本人? これ “ KENZO ”  のセーター、Soldes で買ったんだけどな」
「良いねぇ」
「 “ KENZO ” 最高!で、あんたほんとに日本人?」
高田賢三先生は、凄い仕事を成されたのだと今改めて想う。

ほんとうに、お疲れ様でございました。安らかになさってください。

 

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