五百二十三話 熟した豚

どうよ?
この神々しいまでの美しさ!
透けて艶やかに輝く脂身、薄っすらと赤味のさした肉、さくっと纏った狐色の衣。
ありがたや!ありがたや!
これが、これこそが、豚カツです!
仕方なく向かった街場で、なんの期待感もなしに暖簾をくぐった店屋で、こちらに出逢った。
年に一度、所用のため京都山科を訪れなければならない。
いつも暑い夏の日で、この日も駐車した車内温度計の目盛は四六度を告げていた。
吐きそうなほどの暑さも、その暑さに伴う食欲の減退も、毎年の恒例となりつつある。
昼飯はあっさりと、蕎麦懐石の ” 高月 ” で済ますつもりだったのだが。
この店屋が、東山三条に移ってしまったらしい。
食欲が減退しているといっても、まったく無いわけではない、時間が経てば腹はそれなりに減る。
そして、途方に暮れた挙句に辿り着いたのが、 この豚カツ屋だった。
関西で豚? しかも山科? この暑さで豚カツ? 普段ならありえない選択だろう。
だけど、暑さと空腹で正常な思考はもはや働かない。
言ってしまえば、もうなんでも良かった。
京都山科 “ 熟豚 ”
数軒の店屋が軒を連ねる細い通りに、戸建ての食堂として在る。
構えは新しいが、建物はかなり古く戦後間もない築だろう。
さほど広くない店内は、三割程度の床面が待合に割さかれた造りで。
端から客が待ったり並んだりするのが常であることがわかる。
案の定、店屋のおねえちゃんが。
「ただいま満席で、一五分から二〇分お待ちいただくことになりますけど」
「もうどこにも行きたくないから、おとなしく待ってます」
待っている間、食べている客や食べ終えた客の様子を窺う。
良い豚カツ屋か? 駄目な豚カツ屋か? それは、客を見れば良い。
食の細い客が集う豚カツ屋は、碌なもんじゃないと相場は決まっている。
多分二〇代くらい、女性客からの注文。
「豚カツ定食とクリーム・コロッケを別にふたつ、ご飯は中盛りでお願いします!」
痩せようなんていじましい根性を棄て去った潔いよい注文。
他の客も、負けずに旺盛だ。
「やっぱり美味しいねぇ」「旨いなぁ」「ほんと旨かったです、ごちそうさんでした」
店内のあちらこちらから、そういった声が聞こえる。
黙々と揚げている若い亭主の耳にも届いているだろう。
幸せな亭主で、幸せな店屋だ。
こうして待たされていても苦にならない、これはなかなかの飯屋に入ったのかも。
奥の席に案内され、品書きに目を通し注文する。
「熟成南の島豚のロースカツ定食二二〇グラムで、ご飯は大盛りね」
南の島豚は、アグー種とバークシャー種の混血。
その豚肉を、精肉店  “ 京都中勢以 ” の手で熟成させたらしい。
“ 中勢以 ” の評判は聞いている。
明治期から博労を生業とし、日本を代表する精肉店となった名店だ。
現社長の加藤謙一氏は、コロラド州立大学で畜産科学の修士号を修得したプロ中のプロだと聞く。
特に、日本の熟成肉を語る上で欠かせない存在として知られる。
マジでかぁ?
この何気に入った街場のなんの変哲もない豚カツ屋は、とんでもない豚カツ屋だった。
見事に揚げた三センチ近い厚みの豚カツが運ばれてきた。
豚の品種によって、塩・辛子・ソースを違えて供してくれる。
旨いなんてものではない、豚カツそのものの概念が変わると評しても大袈裟ではない。
癖の強いアグー種だが、その脂身は溶けるように舌のうえで消えていく。
“ 脂が香る ” とは妙な表現だけど、さっぱりとした香りが鼻に抜けるような感じがする。
今まで喰ったどの豚カツとも違う不思議な風味だ。
熟した豚を揚げる。
その名も “ 熟豚 ” JUKUTON と名乗る豚カツ屋。

ここでは、亭主も客もみんなが幸せです。

 

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