四百九十二話 どっちの BABEL が好き?

これが、Boijmans Van Beuningen 美術館収蔵のPieter Bruegel 作「BABELの塔 」
今、国立国際美術館にいる。
さらに。
これも、Pieter Bruegel 作「BABELの塔 」
多分、Wien 美術史美術館にいる。

もうひとつ、Pieter Bruegel 作「BABELの塔 」はあったらしいが。
今、どこにいるのか誰も知らない。
ふたつの「BABELの塔 」
で、どっちの BABEL が好き?
まぁ、一般人にとっては、どっちでも良いはなしなんだけれど。
中世西洋美術愛好家の間では、意外と真面目に交わされる論議のひとつでもある。
なにが違うか?
まずは寸法が違っていて、面積比で Wien 美術史美術館収蔵の方が五倍ほど大きい。
そこで、「大BABEL」と「小BABEL」と呼んで二作品を区別している。
そして、「大BABEL」を観てから二〇年以上経った先日「小BABEL」を初めて観た。
僕は、ある期待をPieter Bruegel 作品に抱いて観る。
くだらない下衆な私見だが。
西洋美術史上でも指折りの謎とされる奇妙な美術が、一五世紀の和蘭陀に出現する。
全くもって Surrealism だとしか言いようのない存在なのだが。
これは、一九二四 年の超現実主義宣言から遡ること四〇〇年前の出来事である。
怪異にして諧謔、仮想であって現実、安堵にある不安。
主犯は、悪魔の画家 Hieronymus Boss で、その悪魔の追随者が  Pieter Bruegel なのだ。
だから、喩え宗教画であったとしても、Bruegel 作品には、その悪魔の足跡を期待してしまう。
その視点から改めて「大BABEL」と「小BABEL」を観てみよう。
要は、どちらが悪魔的か?
「大BABEL」画面左下には、箱船 Noah の末裔 Nimrod 王も登場させ壮大な物語として描いている。
確かに細密ではあるが、病的な仮想現実描写というほどではない。
どこか笑いを誘う諧謔的な人間描写も見当たらない。
「小BABEL」は、どうだろう?
王の姿は見当たらない、主題の塔のみが画面に居座っているだけ。
それでも、諦めず目を凝らしていく。
すると、塔のあちこちに米粒よりちいさな白い点が描かれているのがわかる。
なんだ?さらに目を凝らす。

人間?
塔上階で作業している左官職人が漆喰桶をひっくり返してしまい。
お陰で、下の者が頭から漆喰を被るという場面を微細な筆法で描いている。
Bruegelは、こうした人間を「小BABEL」において一四〇〇体画面上に配した。
現代の CG 技術で、この三ミリほどの人間をトレースし動かしてみると。
創世記時代の左官作業が見事に再現されたらしい。
塔本体は、どうだろう?
新しい煉瓦ほど赤く彩色されている点は、二作品とも同じだ。
だが階調の数が違う。
「小BABEL」では、より細かな階調で塔建設の時間経過を克明に表現していて。
煉瓦を日々ひとつひとつ積み上げていった様子を、現実のものとして受け入れさせられる。
浮かぶ帆船にしてもそうだ。
いくら語っても、これではきりがない。
神は Nimrod 王に怒り、言語による情報を遮断し「混乱」という罰を人間に下した。
それが、主題の本質で「大BABEL」 ではそうなのだろう。
しかし、「小BABEL」では。
塔構造、施工過程、滑車重機、資材運搬、港湾施設の様子が、驚愕の細密画法で描かれている。
そして、頭に漆喰を被りながらも愚直に煉瓦を一段一段積んでいく一四〇〇体もの人間。
「BABELの塔」は文明そのもので、ひとは力を合わせ必死に高みを目指して頑張る。
神様に怒られたって、やめやしない!
画家の労苦のほとんどは、そうしたことの表現に費やされたのではないか?
「小BABEL」の主題は、「Humanism」なのかもしれない。
わずか五年の間に二作の「BABELの塔」を描いた Pieter Bruegel の真意は謎だけれど。
どっちの BABEL が好き?と訊かれたら。

僕は、断然「小BABEL」だ。

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