四百六十一話 Salvador Dari 展

巴里は、二〇代の頃からうろついていて、もっとも馴染み深い異国の街でもある。
もっとも遊びで訪れたことはなく毎度仕事絡みで。
振り返れば、イラついたり、悩んだりして過ごす時間が長かったように思う。
そうした時、決まって訪れる場所がある。
Espace Dari Montmartre
巴里一八 区、有名な Tertre 広場突当りの細い石段を下ると。
石段の脇に、ひと一人がようやく入れるような扉がある。
うっかりすると見過ごしてしまうほど変哲もない扉だ。
だが、その扉は、現実世界から超現実主義的異界への入口でもある。
扉をくぐって、薄暗く黴臭い階段を降りてゆくと地下はさらに暗い。
場末のお化け屋敷を想像してもらいたい。
そういったいかがわしい暗さに包まれた空間だ。
地下空間は、美術館と言われるほどの広さはなくとても狭い。
画家のアトリエ部屋ほどでしかない。
暗さに慣れた眼で部屋を見渡すと。
二〇 世紀最高の天才芸術家が創造した傑作が、眼に飛び込んでくる。
溶けるように捩れた時計「記憶の固執」を始め「宇宙像」「ダリ的不思議の国のアリス」など。
彫像や原画が 、無造作に並んで在る。
中には、手を触れられる作品も。
作品と鑑賞者を隔てるものはなく、監視する者もいない。
訪れるひとが少ない美術館だが、不思議に想うことが在る。
大人の数よりも子供の数が多く、いつも数人の子供が夢中になって遊んでいる。
四歳や五歳くらいだろうか、中には彫像に跨っている奴までいて。
いつも皆楽しそうだ。
腰が引けるような薄暗い超現実主義的異界に遊ぶ子供達の姿を眺めていると。
天才によって二〇世紀の美術界に突きつけられた難題。
surréalisme とは一体何なのか?
Espace Dari Montmartreでは、それを体現出来るように仕組まれているような気にさせられる。
したり顔の美術評論家が展開する surréalisme 論を子供達と一緒に嘲笑う天才 Dari の姿が浮かぶ。
そして、過去最大規模の Dari 展が京都市美術館で開催されている。
九月一四日からの東京国立新美術館で観るつもりだったが、先駆けて京都でも観ることにした。
観終わった後に続くこの奇妙な痛快感はなんなんだろう?
やっぱりSalvador Dari は文句なく凄い!
Dari は、生前こんな言葉を遺している。
Sólo hay dos cosas malas que pueden pasarte en la vida,
ser Pablo Picasso o no ser Salvador Dalí.
人生で起こりうる悪いことは二つしかない。
パブロ・ピカソになることか、サルバドール・ダリになれないこと。

終生天才を演じきった天才は言うことが違う。

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