四百二十六話 禁断の靴

過ぎた感情を注ぐのは良くない。
出来る限り平静であるべきだろう。
そう心掛けてきたし、実際そのようにしてきたつもりである。
この稼業に就いてモノと向き合っていく術についての話なのだが。
“ 好き ” の一念だけで続けていけるほど気楽な稼業ではない。
モノとヒトとの間合いをどうとるのか?
これが意外と難しい。
時に、こうして惑うことも。
僕が引退したその時に履こうと大切に仕舞ってきた靴がある。
八年前、Authentic Shoe & Co. の竹ヶ原敏之介君が仕立ててくれた。
木型から裁断、吊り込み、縫い、最終仕上げの磨きまで。
一〇を超える製靴工程の全てを本人の手で熟した手縫靴だと聞いた。
“ WINCHESTER ”
執拗に施された無数の Brogue と呼ばれる穴飾りが靴を覆っている。
元々 Brogue は、アイルランド地方やスコットランド地方の労働者達が履く靴に空けられていた。
頑強だが、粗末でもあった労働靴に用いられた手法で、飾るための穴ではない。
湿地での労働から産まれた工夫で、通気と水捌けが狙いだ。
館に暮らし、絨毯と芝生の上しか歩かない貴族の靴にはこんな穴は見られなかったはずである。
だとすると、この靴は労働者の作業靴なのか?
この穴飾りが施されていなかったとしたら、この靴はまったく別の意味合いをもつ。
優美な曲線を描く木型を基に仕立てられた靴は、Oxford という名で知られている。
一九世紀の英国で、Albert 公爵が好んで履かれていた靴なのだと聞く。
内羽根式のそれは、正当な血統と格式を備えた貴族の足元を飾るにふさわしい靴といえる。
何故、竹ヶ原君が  Winchester と名付けたのかは知らない。
僕的には、“ Oxford Brogue ” なのだが。
いづれにしても、妙な靴である。
北の労働者と南の貴族の暮らしが一足の靴に同居しているのだから。
ある種の Snobbism なのかもしれない。
もちろん、こんな靴は他に無いのか?と問われれば、それは存在する。
ただ、穴飾りが執拗であればあるほど、木型や仕立てが優美であればあるほど、奇妙さは際立つ。
竹ヶ原敏之介の仕事は、まことにクドい。
徹頭徹尾、とにかく徹底的にクドいのだ。
そこまでやらなきゃもっと売れるのにと言っても、やめない。
そうやって仕立てられた靴も、これまたクドクドとなんやかやと語りかけてくる。
では、靴職人竹ヶ原君本人はどうかというと。
どうでも良いことは、なにも喋らない。
肝心なことも、なにも喋らない。
だから、大抵のひとにはなにも伝わらない。
ただこのおとこのクドい靴に一旦嵌ると、もう他の靴を履くのが嫌になる。
僕は、“ 禁断の靴 ” と呼んでいるのだが。
おとこにとっての靴は、おんなみたいなもんだと思っている。
あっちの靴、こっちの靴と、いろんな靴職人の靴を渡り歩くひとがいるが。
こういうひとは、大体に於いておんな癖が悪い。
ちゃんとしたおとこは、自分が信じるに足る靴職人を探して。
巡り会えば、その靴職人が仕立てた靴を履き続けていくものなのだと思う。
もし、それが性悪であったとしても、それはそれで仕方ないのだと諦めて付合うしかない。
Musée du Dragon は、ずっと竹ヶ原敏之介の靴を扱ってきた。

そして、僕自身、これから先も終生履き続けるつもりでいる。

 

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