三百九十二話 ひぐらしの鳴く宵に

台風が去った七月の暑い日に。
通りすがりの店屋で風鈴なるものを見つけた。
軒を見上げると、鉄や陶器や硝子などいろんな風鈴が吊るされていて。
それらが一斉にチリチリと奏でるものだから、どれがどんな音色なのかさっぱり分からない。
いちいち耳を寄せて聞くのも面倒なので、昔懐かしい吹き硝子の風鈴を指差す。
“ ビードロ風鈴 ” とか呼ばれていたような憶えがある。
「すいません、これ売りもんじゃないんですよ」
「はぁ?なんで?」
「それが、古い売残りの品なんで納める箱もなくて 」
「べつに箱が鳴るわけじゃないんだし、なんかで包んでくれりゃぁそれで構わないよ」
新聞紙に包まれた風鈴をぶらさげて海辺の家へ。
晩のうちに縁側の天井から吊るす。
翌日は、早朝から台風の始末に追われていた。
大雨で膨らんだ雨戸を乾かし、窓という窓を開け放って部屋に溜まった湿気を抜く。
そうしてる間に散らかり放題の庭を元に戻さなければならない。
昼飯を掻き込む暇もなく立ち働いて、気がつけば日暮れ時。
途中、昨晩吊るした風鈴のことなどすっかり忘れていた。
風がまったく止んでいたわけではないので多分鳴りはしていたのだろう。
ただ、気づかなかっただけだ。
風呂で汗を流し、阿波しじら織りの甚平に着替えて縁側で一息つく。
ぼんやりと涼んでいると。
ひぐらしの声が遠くに聴こえる。
宵風が頬を撫でて過ぎ。
その微かな風に誘われて風鈴が揺れて鳴く。
ひぐらしの「カナカナカナカナ 」風鈴の「チリチリチリチリ」物悲しくもあり懐かしくもある。
夕暮れに降った小雨は、庭の緑をさらに濃く深く染め。
紫陽花の葉から雫が濡らして落ちる。
坂を下った先にある海はようやく荒れがおさまり静かで、ほんのりとした蜜柑色に染まっていく。
悪くない風情だ。
旅先での大仰な情緒ではない、普段の暮らしの内にあるあたりまえの情緒がここにある。
他人に自慢するほどの贅沢でもないが、見過ごしてしまうにはちょっと惜しい。
夏には暑いと嘆き、冬には寒いと愚痴ってばかりではつまらない。
これまでのバタバタとした貧乏臭い暮らし振りも考えものである。
ひぐらしは、過ぎゆく夏を惜しんで晩夏に鳴くものだとずっと思っていた。
だけどこうして聴いているのだから、存外早くに初夏から鳴く蝉らしい。

この歳になるまで、そんなことにも気づかずに過ごしてきた。

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