三百八十七話 ほんものの華人食堂

特技というほどのものではないが、意外と便利な才に恵まれている。
旨い飯屋とそれほどでもない飯屋と不味い飯屋を、外観から判別できるという才である。
有難いことに、これが滅多と外れない。
余所の国の見知らぬ街でもほぼ大丈夫だと言って良い。
先日、日曜の夜更けに港街を徘徊していた折にも、その才がものを言う。
神戸の南京町は中華街としてよく知られているが。
華人達の多くは、其処から元町駅を越えてしばらく坂を登った界隈を住処としている。
かつては、中華同文学校もこの辺りに在った。
Toa West なんて小洒落た名で呼ばれるようになった今でも、その風情は名残として漂う。
妖しい異空間に迷い込みたければ、露地の裏を行けばそれも適う。
そんな露地の奥まった暗闇にポツンと看板の灯りが浮かんでいる。
妖しい、このうえなく妖しい、そして妖しくいけない香りがひとを誘う。
硝子が嵌ったアルミサッシのお陰で一◯坪ほどの店内が露地から見渡せる。
路といけいけで境のないこの安直な開放感がまた堪らない。
もはや露天の域に近いだろう。
そんな有様でも、パイプ椅子に腰掛けた客で店は満たされている。
連れ立って歩いていた嫁が言う。
「一応訊くけど、此処に入るって言わないよねぇ?」
「こんばんわぁ、空いてるかなぁ?」
「コラッ!オッサン!ひとの言うこと聞きなさいよ!って、もう座ってるじゃん!」
客は華僑と華人で占められていて、白人客もいたが香港かららしい。
隣席は台湾華僑一家が休日の卓を囲んでいる。
どうやら日本人は我々だけみたいだ。
「取り敢えず、鶏足の煮込み、海老雲呑、中華粽蓮の葉包み蒸し、叉焼饅をください」
「取り敢えずとか言ってるけど、さっきまで食欲ないとかぬかしてなかった?」
最初に運ばれて来た “鶏足の煮込み” を口にした嫁の表情がそれまでと変わる。
「えっ? 嘘でしょ? 八角茴香の香りがして、この味ほんものだよ」
港街で産まれ育って神戸の華人料理に馴染んだ嫁は、旨い中華飯に出逢うとほんものだと評する。
滅多に口にしない嫁の “ ほんもの ” を、久しぶりに聞いた気がする。
「うわぁ〜、中に家鴨の卵が入ってる、ほんものだぁ〜」
蓮の葉で包んで蒸した中華粽のことで、もうほんものの連発である。
「おばちゃん、どれも美味しいよ、ほんものだよ」
「日本人は鶏足を気持ち悪がるけどわたしの好物なんよ、それにうちの息子は食材に煩いからねぇ」
日本人である嫁が、華人に対しほんものだと太鼓判を押すのもどっから目線なんだというはなしだ。
けれど、言われた女将も悪い気はしなかったようだ。
「わたし、甘いのを注文するけどあんたもいる?」
卵タルトと五種類の豆が入った中華善哉にしたようだ。

「ねぇ、あの女将さんだけど、誰かに似てない?」
「そういや、新愛圜の婆さんにどこか面影が似てるような気もするけど」
新愛園とは、この界隈で五◯年以上営まれている老舗の上海料理屋である。
腹を空かした学生だった頃、気立ての良い此処の婆さんによく安くで喰わしてもらった。
代わりに餃子の皮を延ばすのを手伝うこともあって、いまでもよく憶えている。
界隈の番人としての風格を備えた面倒見の良い立派な華人だった。
しかし、もう三◯年以上も昔の話で、この女将がその婆さんであるはずはない。
その縁を確かめる前に女将が告げる。
「此処、新愛園の新しい出店やねん、そんでわたしも向こうから来てんねんけどな」
娘なのか?姪なのか?は訊ねなかったが、婆さんの面影から縁者であることは間違いないと思う。

飯屋の良し悪しはなにで測るのか?
それは、店の造りでもない、馬鹿丁寧な愛想でもない、飾り立てた皿でもない。
空かした客の腹を、少しでも旨いもので満たしてやろうという心意気なのだと思っている。
そういう心意気が “ 親愛園 ” の婆さんにはあって、此処 “ 圜記 ” の女将もそれを確かに継いでいる。

だから、“ 圜記 ” はほんものなのである。

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