三百七十六話 憧れの宿屋へ

 

どうしても気になってしようがない宿屋がある。
その宿には横浜中華街南門筋のなかほどで出逢った。
どうやら現役らしい。
僕の嗜好を心から軽蔑している嫁が言う。
「いいよ、泊まっても、っていうか泊まれば?」
「えっ?いいの?」
「但し、おひとりでどうぞ、わたしはヨコハマ・ニュー・グランドにするから」
何年経っても、どんなに説いても、わかろうとしない者にはわからないものなのだ。
過去にも一度試みたことがある。
千曲川のほとりで、こういった類の宿屋にお連れしたところ。
沸点を軽く超えてキレられたのをよく憶えている。
新婚旅行での事だった。
屋号は “ 旅館オリエンタル ” と掲げられていて、裏口には別の名称が記されてある。
“ 東方旅社 ” とは、中華表記なのか? この有様では “ 飯店 ” と名乗るのは憚られるのか?
わからない。
結局、泊まることもなく、なかに入ることもなく、望みを叶えぬまま横浜をあとにしたのだが。
それでも気になってしようがないので、帰ってから調べてみた。
世のなかには、やはり嗜好を同じくする同胞がおられるもので、その宿泊体験を語られている。
要約すると。
宿銭は二五◯◯円で、空調設備はない。
創業については確かなことはわからないが。
結構な歳の女将が嫁いできた頃にはすでに在ったので、爺さんの時代からなのだろう。
宿帳には船名を記す欄があることから、横浜港に寄港する船員達を相手に営まれていると思われる。
風呂と便所は部屋についていて、外観から想像するより普通に泊まれる。
雰囲気としては下宿感覚である。
部屋の前には、宿泊客が残していったぬいぐるみや漫画本が積んであって娯楽には困らない。
意外と言っては失礼だが、結構繁盛していてほとんどの部屋が埋まっていたらしい。
体験記の終わりに。
「翌朝、朝粥が食べたいと密かに思っていたの(笑)」とか書かれてある。
思っていたのって、この体験記の主は女性?
プロフィールで確かめると、やっぱり女性だ。
港街の煤けた船員宿に泊まる女性って?
旧い日活映画を想い浮かべる。
一九六三年公開、野村孝監督作品 “ 夜霧のブルース ”
やはり、港街に似合う女性となると浅丘ルリ子だろう。
港街横浜、中華街に建つ安宿の一室。
一九七三年 Jerry Goldsmith の名盤 “ CHINATOWN ” が流れる。
隣部屋には、若き日の浅丘ルリ子に似たおんなが下着姿でなんてことがあるのかもしれない。

う〜ん、こうなると行くしかないかぁ、憧れのオリエンタルへ。

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