五十五話 Hannibal Lecter 博士の愛した香り

ずいぶんと前の話になるが。
久しぶりに出張から帰ってくると、いきなり言われた。
⎡あんた、臭いよ。⎦
⎡犬みたいな匂いするよ。⎦
⎡えっ、マジで。⎦
⎡出張中、喰ったものでかなぁ。⎦
そういや、人に言えないような妖しげなもん喰ったには喰った。
嫁は、犬並みに鼻が利く。
⎡旦那が犬みたいな匂いで、嫁が犬みたいな鼻ならちょうどいいじゃん。⎦
⎡くだらない事言ってないで、コロンでも買えばぁ?⎦
⎡臭いのが気になるのは俺じゃなくて、あんたなんだからあんたが買えよ。⎦
⎡うん、そうする。⎦
前向きなのは、よほど我慢ならなかったんだろう。
以来、買い与えられたコロンをつけるように馴された。
香りを選ぶ時、昔から憧れていた香水屋を提案した。
正確に言えば、香水屋ではなく世界最古の薬局なのだが。
そして、憧れていたのは香りではなく、その系譜と薬屋の建物である。
イタリアの古都フィレンツェの街外れに、八百年前からそのままの姿で在る。
“ Santa Maria Novella ”
カソリックでも最も古いドミニコ修道会の教義に基づいて処方される香り。
世に⎡香りの芸術⎦と称されるフレグランス。
顧客リストには、ナポレオンから露皇帝、印度のマハラジャまでが連なる。
顧客の筆頭は、十七世紀のリストに載る。
“ Lorenzo de’Medici ”メディチ家最盛期の当主である。
十八世紀、この薬局で処方された香水や薬品を東洋に伝えた。
Mediciは、薬・医療を意味する“ Medicine ”の語源ともいわれる。
二十数年前、ローマに住んでいた知人からの頼まれモノを買うため始めて訪れた。
確か皮膚炎の薬だったように思う。
扉を開けて、店内を見渡した。
大理石の床、天井のフレスコ画、重厚な薬棚、全てが十六世紀ルネッサンスそのもの。
⎡これが、薬局?⎦
精神科医にして連続猟奇殺人犯、Hannibal Lecter 博士をも虜にした“ 香りの古典 ”。
作家Thomas Harrisの原作、映画⎡羊たちの沈黙⎦にも、この薬局は登場する。
Lecter 博士は、人間の臓器が好物だ。
そして、僕が出張先の杭州で喰った妖しげなものとは?

知らぬとは云え、犬です。

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