七十九話 できるだけ、円く。

ただの⎡円⎦を描いて⎡美⎦と称する。
西欧人と明らかに異なる感性を日本人は持っている。
禅寺や茶室の設えにある掛軸にも⎡円⎦は観られる。
⎡円相図⎦
仏教美術では、広く知られた図柄のひとつである。
迷いなく一筆にて描かれる墨の円。
その意味は?
悟り、真理、宇宙、一切空と説かれるが、本当のところどうなんだろう?
ある禅僧によると。
⎡その答えは見る者に任される⎦
⎡だから、円窓とも言われ、自身の心を映す窓と解される⎦とおっしゃる。
⎡お解りか?⎦
⎡全然、解りませんけど、私馬鹿ですか?⎦
⎡円⎦は描くのも難しいが、造形となるとさらに厄介だ。
昔、日本を代表する世界的ブランドの本社アトリエでの話。
パリ・コレクションにて発表する作品の最終検討会議が行われていた。
デザイン・チームや素材開発を担当するメーカの面々が顔を揃える。
其処へ、大御所デザイナーが入って来られた。
僕のブログは基本実名を旨としているが、この方が何者かは言えない。
怖すぎる。
この方の笑顔を未だかつて見た事がない。
縫上げられた作品をご覧になってぼそっと命じられた。
⎡今回は、ま~るくしてね⎦
聴いた瞬間、この数ヶ月の労苦が全て水泡に帰したと全員が悟った。
何故なら、目の前にある作品群が全て“Square”を基本としていたから。
勇気あるひとりのアシスタント・デザイナーが訊ねた。
⎡先生、ま~るくとは丸ですか円ですか?⎦
⎡両方よ⎦
絶望的な答を残して、先生はその場を立去られた。
デザインに、丸みや円を取込むには難解な作業をともなう。
何だかんだの末、パリ・コレクションの幕は上がった。
東洋的なモチーフは微塵も無かったが、⎡円⎦は新たな日本の美として賞賛される。
さて、写真のコイン・ケースだが。
先生気取りではないが、僕もお願いしてみた。
⎡できるだけ、円く⎦
お引受け戴いた後藤惠一郎さんは、製作過程での苦労話を嫌う。
だが、今回は珍しく試作段階で伝えてこられた。
⎡何度もやってますけど、円くなりませんねぇ⎦
⎡やっぱり難しいですか?⎦
⎡う~ん、難しいけど、何とかやりますよ⎦
革は微妙に伸縮する。
しかも、表は鰐皮で裏は牛皮と性質が異なる素材を合わせる。
上部の金属ファスナーは、当然伸びも縮みもしない。
さらに、収納力を増すために下半分の周囲に別革でマチを施す。
素材的にも難しい。
鰐革は、表面が凹凸で縫い糸が安定しない。
アイロンで熱を加え成形するという一般的な手法は使わず、縫い技術だけで仕上げる。
⎡いやぁ~、こんな小さなものに結構難儀しました⎦
ようやくの事で円くなったコイン・ケースが届いた。
御苦労をおかけした割には、お安くして戴いたと思う。
“Musée du Dragon CROCODILE COIN CASE”
本体価格は、18,000円(消費税抜き)です。

それにしても、人も何でも円くなるのは難しいね。

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