九十七話 山国の春が渡る。

⎡どうしたの?元気ないじゃん⎦
⎡うん、なんかちょっとねぇ⎦
月中の月曜日、仕事も休みだし私用もこれといってない。
⎡しょうがないなぁ、肉でも与えてみるかな⎦
⎡えっ、肉?⎦
⎡家で食べる? それともどっかに行く?⎦
⎡とびきりの肉だったら、ちょっと遠出することになるかも⎦
⎡とびきりの肉に向かって行こう、行きます、今すぐ行きましょう⎦
⎡でも、元気ないんじゃないの?⎦
⎡いや、すでに治ってます⎦
名神高速道路を東へ、京都南から洛中に入る。
洛中を抜けて、北西の山中へ。
高尾山の神護寺、畑栂尾の高山寺も過ぎた辺り。
あらゆる古刹や名跡は、大きな目的を目前に控えているので全て無視。
山中に咲誇る染井吉野にも、⎡ここら辺りは今が見頃だねぇ⎦と言うものの一切興味無し。
この先にある峠を越えると、とうぶん集落はないはずだ。
⎡あんた、ひょっとしたら登喜和に行こうとしてる?⎦
⎡今頃、何言ってんの?⎦
⎡ここまで来たら登喜和に決まってんじゃん⎦
⎡マジですかぁ、じゃぁまだ先だね⎦
登喜和は、北桑田郡京北に在る。
最近合併により地名が変わったらしいが、新たな地名は知らない。
桂川の両脇を住処とした山国の小さな集落である。
丹波国が東にきれる辺りと案内した方が解りやすいかもしれない。
登喜和は、肉屋が営む食堂、或は食堂が営む肉屋であり、どちらかが本業という店屋だ。
食堂といっても、田舎臭いがちゃんとした部屋と座敷がありくつろげる。
まぁ、細かな風情はどうだって良い。
売りは肉であり、肉が登喜和に人を呼ぶのだ。
⎡やっぱり、すき焼きだね⎦
⎡そうだね、すき焼きだね⎦
十年ぶりに再会した登喜和の肉。
あいかわらずの美人だ。
細かく入った霜降り、桜のような色合い、蕩けるような肉質。
松阪牛のように甘みが過ぎないところも好みだ。
丹波牛という銘柄の極みだねぇ。
肉、肉と憑かれたように語るのもなんなんで、別の話もしておこう。
この地は食材の宝庫である。
近くの美山は地鶏の産地であり、丹波の気候風土は絶品の菜を育む。
山では、松茸をはじめあらゆる茸に恵まれ、栗も最高の品質を誇る。
川では、鮎漁がまもなく解禁されるだろう。
目の前にあるすき焼きにも食材は生かされている。
地鶏卵、丹波産野菜、米、茸、全てが地産の極上である。
⎡喰ったなぁ⎦
⎡喰ったよねぇ、やばいよこのままじゃ、ちょっと歩かないと⎦
⎡周山の常照皇寺でも行こうか?⎦
光巌天皇の草庵で、都の北の果てに在る名刹中の名刹である。
仲居さんが云う。
⎡九重も御車返しも、まだとちゃいますかぁ⎦
⎡御上には申訳けないけど、肉の腹ごなしだから別に良いよ⎦
常照皇寺には、御所から移された銘木が植わっている。
九重桜と御車返しの桜は、艶やかな歴史を生抜いて今に咲く。
満開の桜にはほど遠かったが、幸運にも恵まれた。
白梅と僅か枝先に咲く九重桜が重なっている。
梅から桜へと。
山国の春が渡る。
日本の情緒も棄てたもんじゃないねぇ。

でも、やっぱり肉だけど。

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